2009/09/02

五.解放戦争時の経験

 私は帰国後すぐ元の職場・冀南銀行第四支店に行ってみた。当時、第四支店は南宮県城にあった。到着すると何人かの親しい指導者と親しい同志にあった。例えば宇志、董志明、田向栄などである。とくに、いっしょに日本に連行され労働させられた趙青竹、韓介、王博周に会い、張浩天の消息を知った。高須之だけは音信が途絶え、おそらく済南の新華院で死んだのだろうと思われた。全銀行の同志たちが私のために歓迎会を開いてくれた。私はすでに鶏沢県の指導者にこの県での仕事を引き受けると応諾していたので、翌日すぐに第四支店の同志たちに別れを告げて鶏沢に戻った。これで私の望みはかなえられた。

 中国共産党鶏沢県委員会は、私の政府財政科への配属を決めていた。私は辞令文書を受取りに政府に行き崔渓課長に会った。彼は私と王更新同志を呼び仕事の引継ぎをさせた。この日から私は鶏沢県政府での仕事を正式に開始したことになる。私と王更新同志の引継ぎは簡単なものだった。彼は何の事情も説明せず、私にただ1枚の表をわたした。それは取引先の勘定明細表であった。私に元の帳簿さえ見せずに、一部の頁をくれただけで引継ぎは終わった。私は銀行の収支決算式記帳法に基づいて、別の帳簿を作ればいいのだ。更新同志は言った。「あなたは会計業務を熟知していて、すごい」。私が「これは銀行の収支式記帳法です」と言うと、彼は「政府も同じやり方です」と言った。その日から私たち2人はいっしょに仕事をした。その後すぐ崔渓課長は転任になり、私が課長、更新同志が副課長になった。

 鶏沢県政府にはあと2人特筆すべき人たちがいた。1人は教育の仕事をしている張笑古で、彼は私の完全小学校時代の恩師であり校長である。もう1人は政府事務室の莫魁で、彼は41年私が鶏沢に戻ったとき何日かともに遊撃戦を戦った親しい同志だ。

 当時の財政の仕事も複雑ではなかった。農業では累進税率制を、工・商業は完全評価制を採用し、党、政府、軍、団などは供給制の予・決算制度を実施していた。私は鶏沢で47年の年末まで仕事をしたが、この間抗日戦争に勝利してほどなく国民党が内戦を引き起こした。それがいわゆる解放戦争である。遼瀋会戦、平津会戦が進行し、淮海会戦が始まろうとしていた。これらはすべて勝敗を決する激しい戦役であった。仕事上の必要から私は鶏沢県を離れ、冀南第3専署に転任した。

 1947年暮れ、私は冀南第3専署財政課に転任になり、古くからの知人・張奇真課長に出会った。彼は私を見るなり「あっ」と声を上げた。「文彬同志、僕を忘れたかい。もし記憶が確かなら、君の名前は張文彬、またの名を張振元というだろう」。私は「これは老課長(本店の出納課長)、記憶は確かですよ。もう八、九年前になりますね」と言った。彼は「君はなぜ改名したんだ。ここ数年どうしていたんだ」と言うので、2人の課長や同志たちにこれまでのいきさつを簡単に話して聞かせた。本店を離れて第四支店に行ったこと、垂陽、清江、企之の各県の銀行で働いたこと、42年に再び第四支店に戻ってきたこと、44年4月15日遊撃戦に失敗し、日本帝国主義軍隊によって日本に連行され強制労働させられたこと、その後日本の広島刑務所に投獄され、原子爆弾が炸裂し自分もその中にいたこと、幸運にも殉難を免れたこと、日本が降伏してから帰国したこと、鶏沢県で仕事をして、今日再び専署財政課に来たこと、文彬というのは学生時代の名で、本名を使えないとこの名前を使っていること…。
 2人の課長は言った。「文彬同志、君はほんとうに危険な目にあった。原爆の下から生還したんだから、これはすごいことだよ」。私は財政課出張所で1年足らず働いた。上司は大した仕事を与えもしなかったから、しょっちゅう各県に行って業務状況を検査し、一方で戦争のための食糧調達・運搬に駆けずり回った。

 1948年の解放戦争は形勢がはっきりしていた。遼瀋会戦は国民党の敗北によって終わりを告げ、東北野戦軍は関内〔*山海関以内〕に向かって進軍していた。平津会戦は周囲を包囲するだけで攻撃に出ていなかったが、淮海会戦はまさに緊迫しながら進行中で、国民党の敗北は決定的だった。48年秋の食糧税徴収後のある日、張奇真課長は私を訪ねて来て、私を臨漳県に転任させると話した。私はもちろん同意するしかなく、紹介状をもって臨漳県に行った。

 1948年10月私は臨漳県に着いた。紹介状をわたした相手は、知りあいの鄭孟時(元の鶏沢県秘書)で、臨漳県知事をしていた。財政課長も顔見知りの呉風岐で、しかも私が彼のあとを引き継ぐことになった。財政課にはたった3人しかいず、課長のほかは会計と監査が1人ずつで、金庫管理員さえいなかった。金庫は各区で管理していた。私たち2人には何ら引き継ぐこともなく、あとは各区を歩き回った。呉風岐は「張さん、臨漳は今や前線で、いつ何ごとが起こるか知れないから、警戒が必要です」と言う。私は「用心しよう」と言った。このとき戦報が「陳謝兵団が山西南部から黄河をわたり、洛陽等の一部の都市を征服し、漳河南部の国民党がその噂に逃げ出した」と伝えた。1949年元旦を過ぎたばかりのころ、臨漳県は幹部を動員して南下することになった。私は臨漳で幹部として地位が不安定だったから、遠征に参加しなければならなかった。臨漳では4ヵ月余り仕事したことになる。

 臨漳県では南征に10数人が引き抜かれた。県は人と馬車を出して私たちを邯鄲の蘇槽村の集結地に送り届けた。そこに着いてみて、自分たちが南下冀南分隊3大隊6中隊なのだとわかった。それは県ごとの組織であり、臨漳、成磁、邯鄲の3つの県から引き抜かれた幹部で構成されていた。その村で2日宿泊して行軍が始まった。邯館道路の曲がりくねった道を行き、平大道路〔*平郷―大名間〕にあがり一路南へと進んだ。昼夜兼行の旅程で、開封の北側から黄河をわたった。しかし開封には滞在せず、農村に向かってしばらく歩きそこに泊まった。

 農村にいるとき、自分たちの目的地がもともとは蘇州・杭州一帯であったが、今は湖南に変更になったことを聞かされた。つまり人々の言う天国(蘇・杭)から魚米の郷(湖南)に変わったのだ。農村での滞在が長引いた。明らかに前方ではまだ戦いが行われていた。2ヵ月余り滞在して再び出発した。今度は開封から汽車に乗り、鄭州に着くと南に進路をとった。汽車はずっと走りつづけ武漢から程近い、ある駅で停車した。

 長江〔*揚子江〕は南の岸が見えないほどに水をたたえ茫洋としていた。2艘の船を雇って河をわたり武昌に着いた。駅で1泊して汽車に乗り、武昌南部の紙坊鎮まで行って滞在することになった。南方の気候はかなり暑く、また雨も多い。だから北方では「春の雨は油の如く貴重だ」、南方では「春の雨は人を憂鬱にさせる」という。だが私たちはそれなりに準備をし、開封で1人1本ずつ雨傘が配られていた。またもうひとつもっともよく論議されたのが、「長途の行軍は辛く、新しい地区の建設は並大抵ではない。革命の前途は明るいが、その道は平坦ではない。平坦でない側面を充分認識することこそが大事であり、これが革命の仕事をする上で軽視できない心構えである」ということだった。私はこの議論に心から同意した。この小さな村に長くいたわけは、前方は戦闘中で、湖南がまだ解放されていないからだという。私たちはこの紙坊鎮で2ヵ月余り過ごしてある日再び出発した。

 汽車でまた武昌に戻り、定期船に乗った。乗ったのは私たちの中隊だけで、大隊やその他の中隊がどうしたのかははっきりしない。中隊の指導者が言った。「私たちはここから船に乗ってまっすぐ湖南省長沙まで航行する。現在湖南はすでに平和裡に解放されている。私たちは湖南に進駐する。同志たちは指揮に従い航行の安全を保証してもらいたい。武昌から湖南省長沙までは800里〔*400㌔〕余りの水路である。長江、湘江での長い航行ののちやっと長沙に着く。同志たちは安全に注意して、同時にこの滅多にない機会に長江と湘江沿岸の山水や風景を堪能してくれ。これは北方では見られないものだ」。船は石炭ではなく油粕を燃やして航行していたから、速度は速くはなかった。しかも、長江や湘江がいずれも逆流しているにも関わらず、船はできるだけ岸のそばを航行した。この800里余りの水路も昼夜兼行で、一路平穏に長沙に到着したのは夜だった。

 長沙市では湘江両岸に明々とかがり火が点り、とくに東岸が明るかった。岸に上がると私たちは長沙市北門外藩家坪の別荘に逗留することになった。私たちが行こうとしている目的地はまだ解放されていなかった。用事がないので街に出て遊んだ。ある日1人の親しい同志に出くわした。40年私が垂陽銀行にいたときいっしょに仕事した出納員の趙何光だった。「あ、趙くん」。彼は私を「張さん」と叫んだだけだった。趙君は、「張さん、私は前の名前ではなくなった。今は趙何光という名で、省の銀行で出納の仕事をしている」と言った。私は「趙くん、私も本名を使わず張文彬といっている。覚えておくと今後の連絡がしやすいだろう」と言い別れた。しかしその後、私は銀行の系列を離れもう連絡をとることもなかった。私たちは長沙で農歴の仲秋節〔*陰暦8月15日〕が過ぎるころまで滞在し、それから再び出発した。まず汽車に乗り湘郷に行き、今度は徒歩で資江河付近の易家湾に着き、そこから船で湖南の新化県の県城に行った。こここそが私たちの南下した目的地であった。
 解放戦争はこのころようやく基本的に終息し、1949年10月1日、新中国が誕生した。

=====================
◆ 原    文 ◆
=====================

五.在解放战争时期的经历情况

  我回国后立即到原单位:冀南银行第四分行去了一次。当时第四分行住在南宫县城。到后见与一些老领导和老同志如于志、董志明、田向荣等,特别是见到了我们一起被抓到日本作苦工的,赵青竹、韩介,王博周,也得知了张浩天的情况,只有高须之仍没有下落,预计可能死在济南新华院了。全行同志为我接风洗尘。因我已答应鸡泽县领导在该县工作了,所以第二天就辞别四分行的同志们回鸡泽了,这也了结了我的一个心愿吧。

  中共鸡泽县委已决定我到县政府财政科工作,我接信到政府后见到了崔溪科长。他就叫我和王更新同志来一个交接。从今天起我就算在鸡泽县政府正式工作了。我和王更新同志两人的工作交接那才叫简单呢:他什么情况都没有讲,只交给我一张表,也即有关账户的金额表,给我一些账页,连原来的账都没有看,就算交接完了。我是根据银行收付式记账法另起一套账就是了。更新同志说:你的会计业务很熟悉,不错。我说:这是银行收付式记账法。他说:政府也一样。从那天起我两就一同共事了。以后不久崔溪科长调走了,我任科长,更新同志任副科长。鸡泽县政府还有二个人值得一提,一个是搞教育工作的张笑古,他是我在完全小学校读书时的老师和校长,另一个是政府办公室莫魁,四一年我回鸡泽时与他一起打了几天游击的老同志。

  当时的财政工作也不复杂,农业实行累进税制,工商税评完税制,党、政、军、团等实行供给制的预决算制度。我在鸡泽工作到四七年底,此期间抗日战争胜利不久,国民党就挑起了内战,也就是我们说的解放战争。辽沈战役、平津战役、淮海战即将进行这些都是带决战性的战役,因工作需要我离开了鸡泽调冀南第三专署去了。

  一九四七年底,我调到冀南第三专署财政科,又遇到了一个老熟人张奇真科长,他一见我阿一声,文彬同志你我认识,如果我没有记错的话,你不叫张文彬,而叫张振元。我说:你这位老科长(总行的出纳科长)记忆不错,这已是八、九年前的事了。他说:你为什么改成这个名字?这些年你的情况如何?那就简单给二位科长及同志们说一下吧:我离总行到四分行,并在所属垂阳、清江、企之各县银行工作过,四二年又回到四分行,四四年四月十五日游击没打好,被日本帝国主义抓到日本做苦工去了,后又被关在日本广岛监狱,原子弹炸广岛我在其中,只是幸免于难罢了。日本投降后就回国了。在鸡泽县工作,这不今天又到专财科来了。文彬是读书时的名字,不用原来名就用此名了。两位科长说:文彬同志你真险呀,原子弹下都生还了,真是有幸!我在专署财政科长工作了近一年,领导也没分配什么工作,经常到各县去检查工作,另一就是为战争筹粮运草了。

  一九四八年的解放战争形势很清楚了:辽沈战役以国民党失败而告终,东北野战军已朝关内进军:平津战役只是围而不打罢了,淮海战役正在紧张进行中,国民党败局已定。四八年秋征后的一天,张奇真科长找我谈话,把我调到临漳去,我当然只能同意,拿了介绍信就往临漳县去了。

  一九四八年十月我到了临漳县,一交信原来是熟人:郑孟时(原是鸡泽县秘书)到临漳任县长了。财政科长也是认识的吴风歧,而我是接他的班的,财政科只有三个人,除科长外一个会计,一个审计,没有仓库管理人员。仓库由各区来管理。我们两个也没有什么具体移交的,剩下就是到各区走一圈了。吴风歧讲:老张呀!临漳现在还是前线,随时可能发生情况,要提高警惕。我说:会注意的。这个时候传来战报说:陈谢兵团由山西南部过黄河克洛阳等一些城市漳河南面的国民党部闻风而逃了。一九四九年元旦刚过临漳县就动员干部南下了。我这个干部在临漳可说立足来稳,就要跨上了征程了,在临漳工作了四来月就算结束了。

  南征中临漳县抽调的十几个人,县里派人与马车把我们送到了邯郸苏槽村集中地,到后才知道:我们是南下冀南支队三大队六中队,也即是一个县的架子,也即由临漳、成磁、邯郸三个县抽调干部组成的。在该村住了二天就开始行军了,走邯馆公路有转弯就走上了平大公路一直南进了,可说是昼夜兼程,在开封北面过了黄河,但没有在开封停留就往农村走了一段停下,住到农村了。

  在农村时才知道:我们的目的地原来是苏·杭一带,现在改变了要去湖南,也即由人说的天堂(苏杭)到鱼米之乡(湖南)住得很久,显然前边还在打仗。大约住了二个来月又出发了,这次是从开封坐火车到郑州往南开了,火车一直开到离武汉不远的一个站停下了。

  长江在涨水,往南看不到边一片汪洋,就雇了两艘船渡江到了武昌,在车站住一宿就乘车到了武昌南边的纸坊镇就上住下了。南方的天气就相当热了,而雨水也多,所以大家说:北方是:春雨贵似油,南方是:春雨使人愁。不过我们还算有准备,在开封每人发了一把雨伞,另一个议论最多的是:长途行军是辛苦的,建设新区也不会是平静的,革命前途是光明的但道路是曲折的,对曲折的一面要有足够的认识才行,这是革命工作必不可少的思想准备。我很同意大家这一议论的。为什么在这个小镇上住那么多久,据说前边还在打仗,湖南尚未解放。我们在那纸坊镇住了二个来月,一天又起程了。

  坐火车又返回武昌,蹬上了一只航船,只是我们这一个中队,大队其他中队如何走的就不清楚了。中队领导说:我们从这里乘船一直航行到湖南长沙。现在湖南已和平解放,我们要进驻湖南了,希望同志们要听从指挥,保证航行的安全,武昌至湖南长沙有八百多里路的水路,要在长江,湘江航行很多天才能到达长沙的,同志注意安全,同时也是一个难得的机会领略一下长江和湘江沿岸的山水和风景,这是在北方难得见到的。该船没有煤烧而是烧的枯饼,速度并不快,而且不管在长江还是湘江都是逆水航行,船尽可能靠岸航行。这八百多里水路也可说日夜兼程,一路顺利的到达了长沙,是夜晚到达的。

  长沙市湘江两岸灯火通明,尤其是东岸更亮。上岸后我们住在长沙市北门外潘家坪一栋小别墅内,就在这里又住起来了。我们要去的目的地还未解放,无事就到街上玩一玩。一天碰到一个老同志即四零年我在垂阳银行一起工作的出纳员赵何光。阿!小赵。他只能喊我老张了。小赵说:老张我不叫原来的名字了,现在叫赵何光,在省银行搞出纳工作。我说;小赵,我也不叫原名了而叫张文彬,请记住以后好联系,随即就分别了。以后我离开银行系统就再也无联系了。我们在长沙一直住到过了农历中秋节,才又出发了。先乘汽车到了湘乡又步行到了资江河边的易家湾,再乘船到了湖南的新化县城件这就是我们南下的目的地。解放战争至此已基本结束了,一九四九年的十月一日,新中国诞生了。

0 件のコメント: