2009/09/03

3.どのようにして帰国したか

 私たちは広島を出発した。中国人3人、朝鮮人1人はともに広島駅に向かって歩き、再び広島の被爆の惨状を目のあたりにした。しばらく歩くと広島駅に着いた。駅は郊外の山のそばにあり、駅の建物はまだ残っていて、原爆の威力がここまでは達していないことを物語っていた。待合室で待っているとまもなく汽車が駅に入ってきた。私たちは、「来るとき下関から上陸したから、今回帰国するのもやっぱり下関から出発しよう」と単純に話し合った。広島駅はごった返していて、無秩序で、まるで何の管理もされていないようだった。汽車の切符を買う人もなく、日本軍国主義が降伏したのち、国中が無政府状態になっていることをうかがわせた。私たち4人は汽車に乗り、席を見つけて座った。汽車には大勢の人が乗っていて、ほぼ満員だった。汽車はすぐ発車した。さらば、壊滅した広島。

 私たち3人は汽車の中で、下関に着いてからどうするかを少し相談した。私は日本の現地機関は、無政府状態のもとでは何もできっこないと思った。もし連合軍が下関に上陸していたら、彼らを訪ねた方がまだましだろう。汽車には意外にも友好的な日本人も乗り合わせ、なかには中国語を話せる人もいた。
 「あなた方はいつ日本に来たのですか」。私たちが「1944年貴国の軍隊に連行され強制労働させられていたのです」と答えると、彼はびっくりして言った。「ご苦労されましたね。日本はあなた方に申し訳ないことをしました」。「日本軍国主義者は他国に災難をもたらし、日本をも災難に陥れました。広島の惨状をご覧なさい」。彼らも黙ってうなずいた。彼らの戸惑いに話の接ぎ穂を失った。
 汽車がしばらく走り、ある駅で私たちといっしょに服役した朝鮮人、名前は思い出せないが、この被災者仲間が下車した。彼は「中国の友人、僕はここでまだ用があるので降ります。無事にお国に帰れますように、さようなら」と言った。さようなら、朝鮮の友人。ここで手を振り別れを告げた。

 汽車は運行をつづけついに下関に到着した。汽車を降りて大通りに出ると、運良くパトロール中のアメリカ兵に出会った。事情を説明したが、彼らは当然私たちの話を理解できなかった。しかし私たちが中国人であると見て、そのうちの1人が私たちを彼らの司令部に連れて行った。
 私たちはアメリカ軍将校に会い事情を説明した。日本帝国主義につかまり日本に連行され強制労働をさせられたこと、日本が降伏した今早く国に帰りたいこと、もし中国に行く船があれば便乗させて欲しいことである。
 アメリカ軍将校は通訳と少し話した後、通訳は「今中国行きの船はない。まず朝鮮にわたり、それから国に帰る方法を考えた方が簡単だ。今たくさんの朝鮮人罹災者が帰国しようとしていて、毎日船の行き来があるからだ。どうですか」。
 私たち3人はちょっと相談して応諾した。朝鮮まで行きさえすれば、2本の足で何とか中国までたどりつけるではないか。それですぐに同意したのだ。アメリカ軍将校はその通訳に私たちを下関の埠頭まで送らせた。この通訳はたぶん朝鮮人で、英語、中国語、朝鮮語、もちろん日本語を話せた。
   彼は埠頭にいる朝鮮人罹災者の責任者としばらく朝鮮語で話してから、私たちに言った。「3人の中国人友人たち、今晩この朝鮮の友人が手続きして、あなたたちを朝鮮人罹災者といっしょに朝鮮行きの船に乗せてくれます。道中ご無事で、さようなら」。「ありがとうございます。さようなら」。その夜の夕食も朝鮮の友人が手配してくれ、食後すぐ乗船した。それは機帆船で、風があると帆を張り、風がなければエンジンが動いた。太陽が沈むと船は出航した。さようなら、残酷に虐待した日本。

 この航海は順調だった。日本の下関から朝鮮の釜山までのこの海峡は対馬海峡と呼ばれ、つまり途中に対馬島があることから名づけられた。この島は日本に所属している。船は対馬島までで航路の約半分に達し、到着は夜12時ごろになった。その島で1時間余り休憩し、再び出航した。順風満帆で、船は何の機械も稼働させなくとも順調に進み、太陽が顔を出すころ朝鮮半島最南端の釜山市に到着した。

 船が釜山に着岸すると、老若男女すべての朝鮮人がそれぞれ四方に散らばって行った。私たちはどうするか、3人で話し合った。
  1つめは連合軍の機関を訪ねる、2つめは我ら中国の領事館があるかないか。通りに出て捜してみて、どちらか出合った方に帰国の手伝いを頼んでみよう、ということになった。釜山の街ではアメリカ兵には会わなかった。それで通りがかりの朝鮮人に訊ねた。「釜山市に中国領事館はありますか」。その人はとても親切に教えてくれた。「あるよ。ここからそう遠くない。まっすぐ行って右側の横町を入っていくとそこだよ」。私たちはお礼を言って彼の言う通りに歩くと、間違いなく、門には看板がかかり「中国領事館」と書かれていた。

 私たちは中に入り領事館の人に話した。「日本から帰国の途中朝鮮を経由しています。食事や汽車の手配を援助してください」。「わかりました。これから手はずしてあなた方をレストランに連れて行きましょう。その後駅までお送りします」。彼は私たち3人を連れて華僑のレストランに行き、食事ののち駅に案内してくれた。ちょうど北に向かう汽車があり、彼は「お乗りなさい、ソウルまで行ったらそこでまた帰国の方法を考えるといい。さようなら、友人たち」。「領事館のおもてなしに感謝します。さようなら」。

 当時朝鮮は、南半分はアメリカ軍が、北半分はソ連が占領していた。ソウルに着いて汽車は停車した。3人は下車して、ソウルに中国大使館はあるだろうか、と話し合った。そしてすぐに通りに出て人に訊きながら捜した。ソウルの大通りで目にした光景はとてもにぎやかだった。商店の店先には中国、ロシア、イギリス、アメリカ、フランスの国旗と5ヵ国の指導者の肖像が掲げられていた。南朝鮮(今の韓国)の指導者李成晩の肖像もわかった。
 通りで親切な2人連れに出会った。私たちの事情を知ると「中国罹災民なんですね、中国罹災者を受入れているのは、中国華僑ソウル総商会34」です。案内しましょう」。私たちが同意すると、2人は華僑総商会に連れて行ってくれた。総商会は親切に私たちを迎え入れ、2人の朝鮮人にお礼を言ってくれた。

 華僑総商会の人は私たちに説明した。「今、帰国は無理です。ソウル近くには、あの『38度線』・ソ連とアメリカの軍事境界線があり、その両側は100メートル以上にわたって緩衝地帯になっています。誰も管理していないから少人数で行くと危険です。しばらくお待ちなさい。人が集まってからいっしょに帰国するのがいいでしょう」。私たちが「お任せします」と答えると、泊まる場所を手配し、米と鍋を用意して自炊できるようにしてくれた。
 ソウルでは飯さえ食べれば何ごともなく、あとはただあちこち見物して遊んでいればよかった。ソウルの主要道は郊外までまっすぐに延びていた。今思い出すとあれは滅多にないチャンスだった。もう二度とソウルに行く機会などないだろう。

 ある日、華僑総商会から呼びだしがあった。その会議室に着くと、ほとんど満室で、100人余りの人がいた。私たちはすぐ席に着きどういう事情が伝達されるのかを聞いた。
 華僑総商会の責任者が言った。「みなさんの帰国の願いがかないます。同胞の安全のためにその間の手はずを整えましょう。まず私たちは2人の責任者を決め、あなた方に1本の国旗をもってもらいます。道中戦いが始まるとしたら、現状では朝鮮人は中国、ソ連、イギリス、アメリカ、フランスなどの国の人々をやはり鄭重に扱います。ソ連の占領区に入ったらあなた方は国旗をしまっても大丈夫です。ソ連人は中国人を大事にしてくれるということです。ただし一言ロシア語を教えてあげましょう。マヤキダイスキ、私は中国人ですという意味です。ソ連の管理区域に入ったらソ連人との摩擦を避けるために、彼らに自分が中国人であることを話すのです。彼らはきっとあなた方の帰国を援助してくれるでしょう。明日の朝出発です。1日100里〔*50㌔〕も歩けば、夜にはどうにかソ連管理区に着けるはずです。すべての費用、道中の食料など準備は万端です。同胞たちに何も質問がなければこれで解散します」。

 翌日の早朝4時過ぎ集合して出発した。昼食のとき休んだ他は、休憩もなかった。夜にソ連管理区域の駅に着いた。この日の行程は順調だったといえる。
 この駅のソ連軍と連絡をとると彼らは言った。「今はまだ汽車が来ないからここでしばらくお休みください。みなさんご安心ください。きっと鴨緑江を越せるようお送りします」。みんな駅で休んだ。
 ちょうど朦朧としかけたとき、私は誰かが「早く起きろ、汽車が来たぞ」と叫ぶ声を聞いた。何時なのかわからないが、みんないっせいに汽車に乗り込んだ。それは貨物列車であった。私たち100人余りは3つの車両に分乗した。無蓋貨車だったから風がヒューヒュー鳴り響いていた。夜汽車の運行は誰も管理していない。翌日の午前中汽車は鴨緑江を越えようとしていた。
 河を越えればそこはいよいよ中国の安東である。間もなく汽車は河を越えついに安東に到着した。汽車を降りるとみんなは散り散りになった。祖国に戻り着いたそのときの気持ちは容易に察しがつくだろう。
 ありがとう道中の同胞、各国の友人たち。

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◆ 原    文 ◆
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3.我们是如何回国的?

  我们从广岛起程,三个中国人和一个朝鲜人就一同朝广岛火车站走去。又目睹了广岛被原子弹子炸的残状。走了不久的时间就到了广岛火车站。该站在市郊外的山边了,火车站的房子都还在,说明原子弹炸得威力还未达到这里,在候车室没等多久就有火车进站了。我们简单商量了一下来时是从下关上岸的,这次回国仍从下关下岸回国。广岛车站乱轰轰的,没有什么秩序,好像也没有什么管理,也没有看到任何人买车票。由此说明,日本军国主义投降后,全国已成无政府状态。我们四个就上车了,找了一个坐位坐下,车上的人还是不少的,几乎满员,火车随即开动了,再见吧,毁灭的广岛。

  我们三个在火车上就商议了一下,到下关后如何办?我想日本当地机关在无政府状态下肯定办不了什么事,如果有盟军在下关登陆,找他们可能还好些。在火车上居然还遇一些友好日本人,有的还会说中国话:你们什么时候到日本的?我们说:是一九四四年被贵国军队抓来做苦工的。他惊讶地说:那你们吃苦了,日本对不起你们。我们说:日本军国主义者给别国造成灾难,把日本国也推到了灾难之中,你看广岛多惨呐!他们也都默然点头,看他们无可而奈何的样子,不知往下说什么好。火车运行了一段时间,在一个火车站与我们一同坐牢的朝鲜人,什么名字不记得了,这个难友要下车了。他说:中国朋友,我到这里还有事要下车了,祝你们回国一路顺利,再见。那就再见吧朝鲜朋友,就此挥手告别了。

  火车又运行了一段时间终于到达下关了。下车之后我们到大街上去了,其实很顺利,在街上走就遇到了美国的巡逻兵。我们说明意思,他们当然不懂我们的话,但他们看出我们是中国人,其中一人把我们送到他们的司令部。我们见到美军官员说明了情况:是被日本帝国主义抓到日本作劳工的,现在日本投降了想迅速回国,如果有船去中国可顺便带我们回去。美国军官与翻译讲了一下后翻译说;现在没有船到中国去,你们不如先到朝鲜,再想办法回国就容易了,因为现在有很多朝鲜难民在回国,天天有船往来,你们看如何?我们三个一商量说:可以,只要到了朝鲜用两条腿就能走到中国的。所以立即表示同意。美国军官就派那个翻译送我们到了下关码头,这个翻译估计是个朝鲜人,讲英语、讲中国语、讲朝鲜语,当然也会讲日语。他与码头上的朝鲜难民负责人讲了一阵朝鲜话后,就对我们说:三个中国朋友,今天晚上就由这位朝鲜朋友安排你们与朝鲜难民一起乘船到朝鲜。祝你们一路顺利,再见。我们说:谢谢先生,再见。那餐晚饭也是朝鲜朋友安排的,饭后就上船了。这是一只机帆船,有风张帆,无风开动机器,太阳一落船就起航了。再见吧,使人受过残酷折磨的日本。

  这只船的航行也很顺利。从日本的下关至朝鲜的釜山这个海峡叫对马海峡,即中途有个对马岛而得名,该岛属于日本。船到对马岛大约航程一半,也是午夜十二点左右,还在该岛休息了一个来小时。就又起航了,可说一帆风顺,该船未开动什么机器,太阳一出就顺利的,到达了朝鲜最南端的釜山市了。

  该船在釜山靠岸后,所有朝鲜人男女老少都各奔东西了,我们三个怎么办?三人一合计:一是找盟军机关,二是我们中国有无领事馆。上街找一找看吧,找到哪一个都要求他们帮忙回国。我们在釜山街上没有碰到美国的士兵,就随便问一个朝鲜人:釜山市有没有中国领事馆?这个人很热情地告知;有,离这里不远,往前边走靠右边有一个小巷子进去就是的。我们说谢谢之后就按他指的走去了,不错到后一看,门上还挂有牌子:中国领事馆。

  我们进去之后就与领事馆讲:是从日本回国途经朝鲜的,吃饭乘车,请帮助。他说;那好吧,我现在派人把你们送去餐馆吃饭,之后就送你们到火车站乘车。他带我们三人在华侨餐馆吃罢饭就到火车站。正好有往北开的车,他说:你们就上车吧,到汉城下车再想办法回国吧,再见朋友。我们说;谢谢领事馆的招待,再见。

  当时朝鲜的情况是:南半部为美军占领,北半部为苏军占领。该列车到汉城就停了。我们下车后三人商议:汉城有无中国大使馆?随即上街就边找边问了,汉城大街上看到的情况也很热闹,各商店、铺面门上都悬挂看中、苏、英、美、法的国旗和五国的领袖像。也知道了南朝鲜(现在的韩国)领导人李成晚的肖像。在街上碰到两个热情的朝鲜人,他两人知道我们的情况后说:你们是中国难民,接待中国难民的是:中国华侨汉城总商会,我们两把你们送去如何?我们同意后就随他两到了华侨总商会,总商会热情接待我们,并对两个朝鲜人谢意后他们也离去了。

  华侨总商会告诉我们说:你们要回国,现在还走不成,因为出汉城不远,就是“三八”线,也就是苏·美军分界线,其两侧有一百来里的缓冲区,无人管理,人少了走不安全,你们暂时住下吧,等人多了再一起回国!我们说:听总商会安排。给我们三个安排了一个住处,给了米一个锅子,叫我们自己煮着吃,因为在汉城吃罢饭无事只有到处玩了,也可以这样说,汉城的主要街道甚至远郊也都走遍了。现在想起来那也是个难得机会,不会再有去韩国汉城的机会了。

  一天,华侨总商会把我们都叫去了,一到华侨总商会的会议室,差不多人都坐满了。有一百来人,我们立即找地方坐下听有什么事情传达。华侨总商会负责人说:同胞们你们回国的愿望可以实现了,为了同胞安全起见还是布置一下吧,首先我们指定两个负责人给你们制定了一面国旗,在路上就打起来,在目前情况下朝鲜人对中·苏·英·美·法等国都还是很尊重的,到了苏联占领区你们把旗收起来就是了,据了解苏联人对中国人也很尊重,不过还是教给你们一句俄语:莫牙几待司几,意即我是中国人。你们苏管区难免与苏联人打交道,对他们说我是中国人,他们一定帮助你们回国的。明天一早就动身,百来里路够走一天的,天黑才能到苏管区,一切费用、路上吃的都准备好了,同胞们如没有事就散会了。第二天早晨四点多钟就集合出发了,除中午吃饭休息一下外,没有休息。晚上就到了一个苏管区的火车站,这一天的路程也还算顺利。

  在与该车站的苏军联系后他们说:现在还没有车你们就在此休息一下吧,大家请放心,一定会送你们过鸭绿江的,大家在车站休息,我正在朦胧中听到有人喊:快起来,有车了。也不知什么时候,大家一齐去上车,原来是列货箱。我们百十来人上了三个车箱,是敞车,风吹嗽嗽响。晚上行车也无人管,第二天上午车就要快过鸭绿江了,过江就是中国的安东了。不久火车就过了江到达中国的安东了。下车后大家就各走各的了,当时回到祖国的心情是可想而知的,谢谢路途上的同胞和各国朋友了。

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