2009/09/01

六.新中国建設・一革命時期の状況

 私たちの中隊が湖南省新化県に着くと、当然まず政治機構の設置に着手した。県、区、郷、村にいずれも新しい政権を樹立せねばならなかった。県における私の直接働く機関は、工商、貿易、その合作で、これは南下の道すがらすでに確定していたことだ。次は、反匪反覇〔*匪賊を討伐し暴力を戒める〕を進め社会の治安を整えること、その次が土地改革36)で、農民に土地を与え生産を発展させることだった。私の所轄の仕事については、日常業務のほかにいくつか特筆に値することがあった。

 第1に、抗日戦争、解放戦争が10数年つづき、物資は枯渇し物価は高騰していた。民衆の生活の苦しさは推して知るべしであった。そのうえ、一部の商人は騒動を引き起こし、物を買い漁り、買いだめ・売り惜しみをして、物価の不安定をさらに助長した。当時、政府が掌握していた物資は少なく、物資だけに依拠して物価のつりあいを取ることは不可能だった。私は行政手段を用いて新化県の商工界の顔役たちを招集し、彼らに買いだめ・売り惜しみをせず、物価のバランスを取らねばならぬという道理と当面の情勢を説明した。やってみると、物価安定までには至らなかったが、状況はいささか好転した。

 第2に、新化県に着いたばかりですべての仕事に目鼻がついていない時期、私は命令により農村に行き農民の生活を調査した。地方の状況に詳しいこの土地の同志を探していっしょに出かけた。農村の政権はまだ樹立されていない。土匪の活動も猖獗をきわめていた。人民大衆は新政府と幹部に対して認識不足で、新政権はまだ堅固な大衆的支持基盤をもてないでいた。仕事は困難だった。社会もまだ安定していない。私たち2人は、調査にあたって万端の準備を整え、予想外の事態に遭わないように備えていた。私たちは見たり訊いたりしながら、歩いて行った。秋の収穫が終わったばかりでも、多くの人々が飯が食えず、しかし餓死する者はまだ出ていないといった状況だった。苦しいといえば充分苦しかっただろう。数十年前のことだが、私にはみな記憶になまなましい。   

 第3に、50年、修碭鉱山から邵新道路〔*邵陽-新化間〕の一帯を改修することに決まって、2人が派遣されてきた。そのうちの1人は日本の友人(彼の名前はすでに忘れた)だった。測量をし、路線を決め、標識をつけ終えてのち、2人は邵陽専署に戻って行った。私は、省城・長沙に行き新化県の県城に戻らなければならない。忘れがたいのは、その日本の友人だった。見たところ30数歳、私と年齢は同じぐらいで、2ヵ月余いっしょに仕事したが、話はしなかった。その同行した同志に訊ねると、彼は言った。「彼は、日本の敗戦後中国に残って仕事をしている人だ」。あるとき、私は彼と話そうとして言った。「ワレハニホンヒロシマイグ」。「私は、日本広島に行った」と言う意味だ。彼は笑っただけで、答えはしなかったが、おもしろいものだった。ほかにも原因があったのかもしれないが、知り合いにはなれずじまいだった。このようにして、私は湖南省新化県で2年働き、転属になった。

 転出しようとすると、私の引き継ぎにやって来たのは邵陽専署が派遣した郭申同志だった。このとき県政府、工商、貿易、合作課、合作社が、みんなで歓送会を開いてくれた。これでは行かないわけにもいかない。51年10月、新化を離れ邵陽専署に赴いた。私は専署で商工課の仕事を受けもった。正常の商工行政業務のほかに、8つの地区の貿易会社を直接指導した。私が専署商工課で各方面の状況、とくに8つの会社の状況をまだはっきり掌握しないうちに、「3・5」運動〔*三反五反運動…3つの害毒、5つの害毒に反対する国民運動〕がやって来た。あらゆる党政府機関、商工各界はみなこの運動に参加した。この運動が終わると、私はまた専署商工課から専区保険会社へと転属になった。具体的には事務室の仕事だ。二、三ヵ月して、つまり前年の10月から翌年の10月まで邵陽地区で1年かっきり仕事をし、妻、息子、保母をともなって邵陽を離れ省都・長沙に赴任した。

 1952年10月、私は邵陽専区から中国人民保険会社湖南支社に転任した。秘書課の仕事だった。私はここに3年勤務した。日常業務以外のことをいささか記しておこう。まず出張が多かった。常に省支社傘下各会社の状況を把握し検査をした。3年の間に私は湖南のほとんど全県をめぐり歩いた。傘下各社の保険事情を把握するだけでなく、湖南の山水を見歩いた。次に、53年春、北京本社に行き3ヵ月間保険業務を学んだ。やることなすこと学習だったといえるし、実際学習せねばならないのだった。54年7、8、9月、中国共産党湖南省委員会党学校で中央が頒布した「過渡期の総路線」を学習した。

 さらに、1953年、国家は貨幣制度改革を実行し、1元は旧貨幣の1万元という新しい貨幣を発行した。旧貨幣はすぐに使用を停止した。これが給与制度改革を進行させ、元来の供給制から俸給制に変わった。供給制とは戦争中実行せざるを得なかった現物支給の賃金制度だった。平和建設期には当然収束せねばならなかった。
 第4に、国家は、糧食、綿、油の統制購入・統制販売を実施した。
 第5に、都市住民の戸籍制度を実行した。私たち各地を転戦して居住の定まらない者も、今や戸籍のある公民となった。湖南保険会社は湖南省財政庁の傘下企業で、業務は本社に、人事制度は財政庁に帰属した。湖南交通銀行がまた設立されるという。新しい職場は職員を引き抜くことになり、私は再び引き抜かれる一員となった。保険会社を離れ交通銀行に行くことになる。

 中国交通銀行は解放前からあった。なおかつ国外機構もあったが、国内には北京の中国交通銀行総管理所があるだけだった。今設立しようとしている中国交通銀行各地支店は、銀行業務をするのではなく、国家を代表して公私の合弁企業を管理するのである。それは垂直線型指導であり平面型指導でもあって、財政庁の附属機構であった。
 私は財政庁の命を受けて交通銀行湖南支店設立を計画した。1955年10月、正式に中国人民保険会社湖南支店を離れ、交通銀行湖南支店に行った。のちに幹部たちが配属され副社長も配属されて来た。というのも社長は人民建設銀行の行長が兼務した。私はなおも秘書課を任されて仕事したが、機構の設立計画期間中に各地へ行った。まず、中国交通銀行総管理所で会議が開かれ、機構設立計画の段取りと業務作業推進について話し合われることになり、私は北京に行った。ちょうど都合よく、交通銀行総管理所の総支配人は、もともと冀南銀行本店総務課の王一農課長で、のちに第四支店の主任もしたことがあった。昔馴染みの指導者、同志が相会って格別の親しみをこめて昔話をした。彼の言うことには、「今、人民銀行社長は往時冀南銀行本店の胡景雲社長だ」。思いがけず、この昔馴染みの指導者、同志にも会った。その次に、私は湘西行政公署、黔陽専署、郴州専署の交通銀行設立計画専区3ヵ所で1年近く働いた。交通銀行機構の設立はなお未完成で、その他の仕事もまだ正式に進行していなかったが、上部機構は交通銀行の撤収を発表した。ただちに仕事は終結し、他の幹部が別に仕事の手はずをつけてから、私は妻と副社長とともに財政庁に戻った。

 私は、財政庁に戻って幹部課で人事の仕事をした。省レベルの機関にはやはり下部機構への検査業務があり、出張が多かった。私は省財政庁幹部課で1年近く働き、おおよそ次の3つの仕事をした。(1)省委員会幹部調整作業班に参加し、邵陽地区委員会に出向いてたくさんの幹部「档案」〔*身上調書〕に目を通し幹部の状況を把握して、異動しなければならない幹部を決めた。このようにして邵陽地区で長期間働いた。(2)華東財経学院が湖南へ学生募集に来た。私は、勉学には好機と決心し、時間をとってまじめにひととおおり準備して、語文と数学の試験を受けた。その結果、2人だけ合格し、私はその1人だった。しかし、私は運が悪く、58年大躍進〔*工農業躍進運動〕となり、華東財経学院は授業を中止し、私たち合格した学生も勉学の機会を失った。(3)私は省財政庁の仕事についた。省委員会の決定により指導工作班を派遣することになり、陵零地区道県に行き農村大弁論に参加したが、これが大躍進の始まりだった。数ヵ月弁論し、数ヵ月大法螺も吹いて、農村工作は終わり、私は財政庁に戻った。仕事はまた配置転換が予告されていた。

 1958年7月のある日、私は事務室で幹部を配属させるために来たと言う人を応接していた。紹介状を見ると水電庁だった。それは私を転属させようというのだった。何と課長をそこへ引抜こうというのだ。その人が去ると当然私たちに話があり、紹介状が書かれた。私たちは水電庁に出頭した。実際は庁内というわけではなく、陵零地区の冷水滩にセメント工場を新設しようというのだった。セメント建材業は湖南が第一だ。 先陣の10数人が冷水滩に到着し、工場所在地を選び、工場の建物を建て、宿舎建設に着工した。幹部の配属と労働者の募集が同時に進められた。幹部は学習し、労働者は養成しなければならないが、湖南には当時まだセメント生産業がなかった。私は山東(済南セメント工場)、山西(大同セメント工場)に派遣され労働者の養成について打合わせをした。機械設備の発注も緊迫して進行していた。私の具体的な仕事は事務室の業務だったが、事実上事務室にはほとんど座っていられなかった。私という事務室主任はいつも外を駆けずり回っていた。工場の初期設計は3万2千トンの設備2組だった。努力の末第1組はすでに建設され操業を開始し、工場もそれらしくなった。だから私は、家も長沙の省財政庁から省冷水滩セメント工場に引っ越した。

 しかし、大自然は人民に災難をもたらした。58年は豊作、59年は凶作、60年も凶作で、全国的な凶作といえた。国中がみな苦しい日々を過ごした。水電庁冷水滩セメント工場ももちろん例外ではない。このため第2組・年産3万2千トンの計画は建設が中止された。こうして工場は人員削減しなければならなくなった。私も削減される1人で、省水電庁は私を呼び戻すことに決めた。このときすでに1961年7月であった。私が省水電庁冷水滩セメント工場で新設業務から転属になるまで、まるまる3年経っていた。私がセメント工場から呼び戻されてのち、省水電庁は私たちを庁所属の湘中電気供給所に配属した。そこで私は財務課の業務を任せられた。まことに余計なことに、この課には別に課長がいた。のちにまた党委員会で一連の組織業務をした。最後は、各課・各室支部で党の業務に従事した。61年暮れ、またそこを異動して湖南省財政庁に戻った。

 1961年暮れ、私が紹介状を持って財政庁に出頭すると、人事課はすでに人事所に変わり、もとの課長・劉素臣が現在の所長になっていた。文書をわたすと私は言った。「劉課長、あっ所長、あなたはなぜ私をまた呼び戻したのですか」。彼女は言った。「張さん、あなたはどうして戻りたくないのですか」。「私は外で一回り無駄足を踏んで、またもとに戻ったと言っているんです」。「一回り駆け回るのも良いものでしょ。あなた方を転属させたのは、工場の仕事をしてもらうためでした。戻って経済建設所の指導者です」。私は言った。「光明同志はまだ経済建設所にいますか」。「いません。機械庁へ転属になりました。これは見込みどおりのことです。あなた方はなおもとの職場にとどまっているのです。今、長沙の各省級企業は、工場駐在要員を配置しようとしています。配置が全部終わったら、会議を招集します。あなたは彼らの班長です。もう1人副班長を選出しなければなりません。主に企業を監督して、期日どおりに出納・徴税する財経制度を執行します。いつ人がそろい会議を開くかは、いずれあなたに通知します」。所長に別れ、また財政庁の紹介状を持って帰った。沙、王両主任に会うなり私は言った。「2人の指導者、私はまた戻りました。何をやりましょうか。報告するまでもないでしょう。あなた方は私よりよく知っている。他ならぬあなた方が私をここに配属させたというわけでしょう」。みんな笑うだけだった。こうして財政庁での勤務をつづけた。

 最初に財政庁の命により8-9ヵ所の長沙にある省級企業に工場駐在要員を転属配置する問題は、省の規定に従いもとの企業から課長級幹部を工場に駐在させ、1年してようやく配置が完了した。財政庁から公文書を発行し、工場駐在班の班長、副班長、及び各企業駐在要員は各企業に戻った。こうして工場駐在業務はどうにか正式に展開されることになった。次に、省財政庁はどうしたわけか、私たち工場駐在要員を長沙市税務局に代行管理させた。代行管理は66年文化大革命42)のときまでずっとつづいた。さらに、財政庁はこれらの工場駐在要員を鉱業院に集めて、省党学校で1年近く学習させ、省福田「5・7」幹部学校で2年労働学習させた。72年私はまた湘潭市財政局に配属された。62年から72年、私の財政庁での10年はこれで終わる。

 1972年2月、私は湖南省福田「5・7」幹部学校から直接湘潭地区財政局に配属され、寮に住んだ。仕事は企財班で、班にもう1人呉という姓の同志がいたが、誰が責任者なのか発表はなかった。私が財政局にいた数年の経過状況は次の通り。(1)財経機構はたえず変化していた。財金局、財銀分家は財税局に変わり、財税分家は財政局に変わった。地方と町が合併して現在の湘潭市財政局になった。(2)私は企財課長を務め、主に企業の財務部門の業務を管理した。あるときは、各県に検査に出かけセンター業務を行った。(3)年老いて病が多くなった。歯が痛み脱落して何本もなくなり、全部入れ歯に換えた。胃が痛み飯は食えないし、よく眠れないので、結局手術をした。結核など疾病が全身にまとわりつき仕事ができなくなった。日常生活さえも自由にまかせず、あるときは長期休暇を願い出て休養した。(4)病気を治療しながら仕事をつづけて、1979年5月正式に離職手続きをし、安らかに晩年を過ごすことになった。

 私の一生の革命事業は、1939年8月から抗日戦争、解放戦争、新中国の平和建設を経て1979年5月まで40年余の経歴により終了することになる。以後は、まさに職業を離れた革命事業である。

===================
◆ 原     文 ◆
===================

六.我在建设新中国这一革命时期的情况

  我们这个中队一到湖南新化,当然是首先建政,从县、区、乡、村都要建起新的政权。我在县直机关是搞:工商、贸易、合作的,其实这些南下路上就都确定好了的。其次就进行了反匪反霸以整顿社会治安,再次是土地改革,使耕者有其田以发展生产。我所管的工作除日常的外,有以几件事值得一叙:首先抗日战争、解放战争打了十多年,物资奇缺物价飞涨,人民生活之苦是可想而知的。加上一些商人兴风作浪,抢购物资、囤积居杂,更助长了物价的不稳。当时政府掌握的物资也不多完全依靠物资来平衡物价是作不到的。我就采取了一些行政手段,招集新化工商界头面人物给他们讲清道理与当前形势,不要把购囤积而要作些平衡物价之事,这样作,虽不足以使物平稳,不过总好一点。

  其次是才到新化,一切工作尚无头序,我就奉命到农村去作了一次农民生活调查。找了一个熟悉地方情况的本地同志与其一同出发了。当时农村政权尚未建立,土匪活动也很猖狂,人民群众对新政府和干部认识不足,也就是说新政权还没有巩固的群众基础。工作困难,社会也还是很不安定的,我们两个下乡调查是作了一切准备的,以防不测免遭意外。我们一路走,就边看边问,秋收刚过很多人就没有饭吃,但还没到饿死人的地步:苦也就够苦的了。事隔几十年了,那种事对我来说,都记忆犹新。

  再次是五零年修砀矿山至邵新公路的那公路地区决定要修了,并派两个人来,其中有一位日本朋友(他的名字现在忘记了),搞测量、选路线、走标完成之后,他们两个回邵阳专署,我因要去省会长沙就回新化县城了。使我不能忘记的是那位日本朋友。当时看样子有三十来岁与我年纪差不多,在一起工作了二个来月,从来不讲话。我问与他一起来的那位同志,他说:这位日本朋友是日本战败后留下来在中国工作的。有一次我想与他谈谈,我说:我里洼尼洪溪鲁斜马一古。即我到日本广岛去过。他只笑而不答话,真有意思,是否还有其他原因就不得而知了。我就这样在湖南省新化县工作了二年就调离了。

  我要调走了,来接我的班的是邵阳专署派来的一位郭申同志。此时县政府、工商、贸易、合作科和合作社都开了欢送会。这就非走不可了。五一年十月离新化赴邵阳专署了,负责工商科的工作,除正常的工商行政事情外,还直接领导有八个地区的贸易公司。我在专署工商科各方面情况,特别是八个公司的情况都还没有摸清楚,就来了“三·五”运动,所有党政机关,工商各界都到这一运动中去了。这个运动搞完了,我也调离未署工商科而到专区保险公司去了。具体是搞办公室工作,也只搞二、三个月也就是从去年十月至今年十月在邵阳地区工作了一年整,就带着妻子、儿子、保姆一起离开邵阳赴省会长沙了。

  一九五二年十月,我从邵阳专区调到了中国人民保险公司湖南分公司,具体搞秘书科工作。我在湖南保险公司干了三年,除了日常工作外有些事值得一记:首先是出差多,省公司下属各公司经常了解情况和检查。在三年中我几乎走遍了湖南的每一个县,不但了解下边保险情况,也看了湖南的山山水水。其次是:五三年春季,到北京总公司学了三个月的保险业务,这就叫干什么就必须学什么,而且是必须的。五四年七·八·九月,在中共湖南委党校学习中央颁布的“过度时期总路线”。再次一九五三年,国家还实行币制改革发行新人民币一元兑旧币一万元,旧币随着停止使用。这进行了工资制度改革由原来的供给制改成了薪金制,供给制是战时不得不实行的一种供给制度。和平建设时期当然是供给制应该结束了。四.国家对粮、棉、油实行了统购统销。五.对城市居民实行了户口制度。我们这些南征北战居住无定的人,现在成了有户口的居民的公民了。湖南保险公司是湖南省财政厅的一个下属企业,业务归总公司,人事制度归财政厅,据说又要成立湖南交通银行了,成立新单位就要抽调人员,我又是被抽调的一员,也就是要离开保险公司到交通银行去了。

  中国交通银行解放前就有的,而且还有国外机构,国内只有一个在北京的中国交通银行总管理处了。现在要建的中国交通银行各地分行不是搞银行业务,而是代表国家管理公私合营企业的。它归条条领导也归块块领导,因此它是财政厅的二级机构。我就奉财政厅之命筹建交通银行湖南分行了。一九五五年十月份,正式离开中国人民保险公司湖南分公司,到交通银行湖南分行,以后又调来一些干部还调来一位副经理,因经理是人民建设银行,行长兼的。我仍是负责秘书科工作的,但在机构筹建中还是到各处去的。首先我到北京在中国交通银行总管理处开了一次会就是布置筹建机构和开展业务工作,也真巧交通银行总管理处的总经理,原来就是冀南银行总行总务科的科长,当然以后他又当过第四分行主任。老领导老同志相见叙旧格外亲热,据他说;现在人民银行总经理就是当年冀南银行总行胡景云总经理。出乎意料地见到了这些老领导老同志。其次我在湘西行署,黔阳专署和郴州专署筹建专区交通银行在这三个地方搞了将近一年。交通银行机构建立还未完成,其他工作可以说还未正式进行,上级就宣布交通银行撤消了,随即就结束工作了,其他干部另行安排工作之后,我和妻子及付经理回到了财政厅。

  我回到财政厅在干部科搞人事工作,在省级机关还是到下边检查工作即出差多。我在省财政厅干部科近一年大致干了如下三件事:一.参加省委调干工作组,去了邵阳地委,看了不少干部档案,了解干部情况,订了要调的干部。这样在邵阳地委搞了很长时间才结束。二.华东财经学院来湖南招生,我下决心去读书是个好机会,我就抽出时间认真准备了一下,语文和数学参加了那次的考试。考试的结果只有两人考上了其中有我一个。我的运气不好,五八年大跃进了,华东财经学院也停办了。我们这些考取的学生也就失学了。三.我参加了省财政厅,根据省委决定派了一个工作组,去陵零地区道县参加农村大辩论也即大跃进的开始,辩论几个月,也吹了几个月浮夸风,农村工作结束后,我就回到了财政厅,也预示着工作又要调动了。

  一九五八年的七月一天,我正在办公室接待了一个人,他说是来调干的。我一看介绍信是水电厅,是调我的,这怎么好讲就引到科长那里去了。那人走后当然就给我们讲了,写了一个介绍信,我们就水电厅报到了。其实并不在厅里而到陵零地区冷水滩筹建水泥厂的,水泥建材企业,这在湖南是第一家。首批十多人就到了冷水滩,选厂址、建厂房、宿舍就开工了。调干部,招工人也在同时进行,干部要学习,工人要培训,但湖南没有这个条件,也就是湖南当时还没有水泥生产企业。我就被派到山东(济南水泥厂)、山西(大同水泥厂)联系培训工人事宜。机器设备的订购都在紧张进行着。我的具体工作是搞办公室工作的,实际上很少能坐在办公室,我这个办公室主任经常在外边跑。该厂原设计是年产三万二千吨设备二套,经过努力第一套已经建好了投入了生产,工厂也像个样子了。所以我把家也从长沙,省财政厅搬到了省冷水滩水泥厂。

  但是大自然给人民造成了一场灾难。五八年是丰收,五九年是灾荒,六零年也是灾荒,可以说全国性的灾荒,全国都在过苦日子,水电厅冷水滩水泥厂,当然也不例外。为此第二套年产三万二千吨的计划就停建了。这样工厂就要减员。我也是被减之一,省水电厅就决定把我调回来,这已是一九六一年的七月份了。这样我在省水电厅冷水滩水泥厂从筹建到调离整整三年。我从水泥厂调回后,省水电厅就把我们分配在该厅所属的湘中供电所。该所叫我负责财务科工作,这个科有科长,真是多此一举,后来又在党委搞了一段组织工作,最后在科室支部搞了段党的工作。六一年底,就又调离该所回湖南省财政厅了。

  一九六一年底,我持介绍信去财政厅报到,人事科已改成人事处,原来的科长刘素臣也就是现在的处长了。一交信我就说:刘科长啊处长了,你为什么又把我调回来?她说:老张,你怎么不愿意回来吗?我的意思在外白跑了一圈,回原地了。她说:跑一圈也好么,调你们是搞驻厂工作的,归经建处领导。我说:光明同志,还在经建处吗?她说:不在了,调到机械厅去了。这是意料中的事,你们还驻在原单位,现在长沙的各省级企业都要配驻厂人员,等配齐之后召集开个会,你任他们的组长,再选一个副组长,主要是监督企业执行财经制度,按时纳税政,何时人齐,何时开会,到时会通知你的。辞别处长又拿了财政厅介绍信回来了。一见沙王两主任我就说:两位领导,我又回来了,干什么?就不要汇报了吧,你们比我还清楚,是你们叫我干这个工作的呀!大家一笑而已。就这样在财政厅干下去了。

  首先奉财政厅之命与那八、九个在长沙的省级企业调配驻厂人员问题,按省的规定由原企业配备科仍驻厂干部,搞了一年才配齐,由财政厅发了一个公文把驻厂组的组长副组长,以及驻各企业人员下到了各企业。这样才算正式开展驻厂工作了。其次省财政厅不知为何?财政厅把我们这些驻厂人员交给长沙市税务局代管了。一直代管到六六年文化大革命时才结束,再次是财政厅把这些驻厂人员集中在矿院,省党校学习近一年又到省福田“五·七”干校劳动学习了二年于七二年,我又调到了湘潭市财政局,从六二年到七二年,我在财政厅十年就结束了。

  一九七二年二月,我由湖南省福田“五·七”干校直接分配到了湘潭地区财税局,搞了一间宿舍住下。工作就在企财组,组内还有一个姓吴的同志,谁负责都没有宣布。我在财政局这些年经历的情况:一.财经机构变个不停:财金局、财银分家变成了财税局、财税分家变成了财政局,地市合并成了现在的湘潭市财政局。二.我任企财科长,所以主要还管理企业财务方面的工作,有时也下各县检查搞中心工作。三.人老了疾病也多了,牙痛脱落最后没剩几个牙了,就换一口假牙,胃痛,吃不了饭,也睡不好觉,结果动了手术,结核病等等疾病缠身工作不了,连生活都不能自理,有时就请长假休养。四.有时也边治病边坚持工作,直到一九七九年五月,办了正式离休手续,就安度晚年了。

  我这一生的革命工作,从一九三九年八月中经抗日战争,解放战争,新中国的和平建设一直到一九七九年的五月经历四十来年算是终止了。以后就是不在职的革命工作了。

0 件のコメント: