2009/09/04

2.日本での一年余り

 船が着岸し、上陸の命令が出た。しかし日本兵の姿はない。青島のときのように、商人風の日本人管理者たちと白衣を着た医者らしい人々が数人いるだけだ。
 通訳が言った。「みなさん、道中お疲れさまでした。ここで隊・班ごとに服を脱ぎ、布団や持ち物といっしょに縛り蒸気消毒をしてもらいます。終わったら裸のまま並んで、あそこにいる医者たちに薬液を全身に塗ってもらってください」。そうして服を着、自分の持ち物を持ってくると朝食になった。一目見てみな失望した。1人1個の握り飯と冷や水だけだったからだ。
 通訳が言いわたした。「みなさんまた出発しなければなりません。汽車に乗って大阪と新潟へ行きます。すぐ出発です」。汽車が大阪に着くと、第3中隊が降り、大隊長も下車した。私たち1、2中隊はそのまま乗って北に向かい、新潟県新潟市に着き、そこの華工管理所に入れられた。
 こここそ私たちの苦役の現場となる目的地だった。

 私たち1、2中隊が新潟市に到着したのは1944年9月〔*陰暦の勘違いか、陽暦では11月と記録されている〕である。そこの華工管理事務所に寝泊りした。
 その収容所はどんなふうだっただろうか。
 その日、下関から汽車に乗って、朝飯を食べたきり車中では何も食べなかった。夜、新潟華工管理事務所に着いてマントウを1つ食べたが、それが晩飯だった。みなひどく失望した。そこでのそれからの生活も、よくないことを予告していたからだ。
 その収容所には、もともと100人の人々が住んでいた。しかし、生活、労働、現場のいずれも私たちとは違っていて、行き来もほとんどなかった。ほどなくまた100人くらいの人たちがやって来て、私たちと生活をともにした。当初の3中隊が大阪に残ったのだから、彼らがおのずと第3中隊になった。しかし大隊長はいなかった。
 隊ごとに責任をとり、隊員に問題が発生すれば3人の中隊長が相談した。しかも便利なことに、3人の隊長は同じ部屋住まいだった。
 その年9月はとても寒かった。案の定、生活条件は極端に悪く、食料は足らず、着るものも少ない、毎食2両〔*100㌘〕に満たないマントウ1個、綿入れはない、まして病気になっても医者はいないし薬もないという有様だった。
 基本的に、石炭埠頭での船の積み降ろし、貨車の積み降ろし、倉庫積みなど、機械化の進んでいない港で、労働はそのほとんどを人力に頼るほかなく、雨風をしのぐものすらない。このような条件のもとで、「労工」はどのくらい長く生きられるのだろうか。これは、余りに残酷な現実であった。

 新潟華工管理所の様子を述べてみよう。
 そこは日本の当時の建物がみなそうであるように、木造だった。東側にあって西向きでどこか中国の四合院と似ていた。正門の左側に「新潟華工管理事務所」の看板があった。門を入ると左手に管理人たちの事務室があり、右側に警察の守衛室があった。北側に倉庫と炊事室が並ぶ。東側は2階建ての建物で、先住の100人余の「華工」はその2階、北の端に住んでいた。南端は誰も住んでいない。南側に2階建てが並び、私たち3つの中隊はこの2階に住んだ。その西側に2部屋あり、死者の読経室に使われた。東と南の階下は使われていない。周囲に隣接する建物はなかった。

 労働現場について述べよう。
 基本は石炭埠頭で、木材運搬船や貨車が出入りすることもあった。何本かの作業引込み線はみな主に南北に走っていた。東西に引かれているところもあった。船の積み降ろしは人力に頼った。貨車積みには2種類の方法があった。1つはクレーンで高架橋の上のトロッコに積み、トロッコを人力で押して貨車に積み込むやり方である。あと1つは人力でウィンチ〔*手動式巻揚げ機〕に積み貨車積みするやり方だ。船内で運ぶその他の貨物同様、船のウィンチを使って岸壁に貨物を降ろす以外は、貨車積みも倉庫入れもみな人力で完成させていた。これらのやり方を見ても労働はかなり厳しいものだった。これが新潟港の基本的な状況だ。

 私たち捕まえられてきた「労工」はどのように労働し生活したのか。
 私たち3人の隊長は同じ部屋に住んでいたから、問題が発生すれば充分相談することができた。労働者のなかから炊事ができる者を選んで炊事班をつくった。2中隊で日本語ができる者には私たちの通訳をやってもらい、管理人たちとの交渉をうまく運んだ。しかし食事はごく粗末だった。管理事務所がくれる小麦粉は、1日3食の毎食2両に満たないマントウ1個の分だけで、何の副食も油や塩もなかった。ほどなく天気はたいへん寒くなった。さらに新潟地方は雨か雪の天気が多く、零下10-20度にもなった。
 みな中国から着てきた衣服のままで、綿入れの服はない。風雪を防ぐすべもなく港へ労働に出ていった。北風が吹いて、実に耐えがたかった。管理事務所の日本人との交渉は効果がなかった。所長にも1度警告したことがあった。

 この所長は背の低いとても痩せた老人で、連れ歩く通訳は若く、石川といい、日本語でイシカワサン。これは石川先生の意味だった。
 私たちを広場に集めて所長が一言話し、通訳はこう訳した。「みなさん、中国からここまで来て労働されたいへんご苦労さまです。衣食住はいずれも不充分でしょうが、今は戦争中なのですから仕方がありません。みなさん毎日マントウを食べているではありませんか。これはみなさんの生活習慣に従ってのことですし、格別に配慮してのことです」。髭面の老所長は、見るにこれ以上どうする気もないようだった。
 私たち3人の隊長は話し合って1人の隊長が所長に提案した。「何はともあれ、みんなに防寒用の服と靴を支給してください。さもなければ港での労働はとても無理です」。石川さんが通訳してのち所長はしばらく考えて、通訳に二言三言告げた。通訳は言った。「所長はみなさんに防寒用の品物をあげると言っています。しかし今まだ何をあげるかは言えません。対策を考慮するということです」。このようにして交渉は妥結した。しばらくして対策はどうにか考慮されたのだろう。一人一人に、麻袋1枚と日本式の親指とほかの指が分かれたゴム靴〔*地下足袋〕1足が支給された。

 さらにはなはだしいことには、そこには医者はいないし、薬もなかった。病気になっても死を待つよりほかなく、管理事務所と交渉してもどうにもならないのだった。
 私の2中隊からまず初めに死者が出た。
 44年の12月頃、親子2人で連行されてきたうち40数歳くらいの父親(息子は20余歳)が死んだ。私は長い間彼らが親子だとは知らなかった。2人がいつも他の人たちと別行動をとっていたので、訊ねてみてやっと親子だとわかった。その父親は年老いて体を悪くしていた。苦役と生活の悪条件に苦しんでついに死んだ。死んだことがわかると、日本人の僧侶がやってきてお経を読んだ。その葬儀室で私は通訳を通して僧侶にお経をしっかり読んでくれるように頼んだ。なぜなら、息子がそこに同席していたからだった。お経が終わると火葬場に運んで火葬した。
 このような生活を何と表現したらいいのだろう。苦役労働とはいかに苦しいものであったことか。

 私たちが、毎日労働に行ったいくつかの埠頭の現場は次のようなものだった。

 第1にもっとも西側の荷役埠頭。船が着くと人夫が船倉に降りてウィンチに貨物を吊りあげ、岸壁のクレーンが高架に据えてあるトロッコに荷揚げし、人夫がトロッコを押して貨車に荷積みする。この荷役現場で、ある日、現場監督が人夫を殴打する事件が起こった。それは、私が引率していた班だった。突然、人夫が走ってきて私に言った。「隊長、高架線のところで、現場監督が仲間を殴っている」。私はすぐに行ってみた。それはウィンチに貨物を吊りあげている人夫だった。甲板にいる現場監督の指図をよく聞かず事故を起してしまったのだ。
 私はまず現場監督の殴打を制止した。それらの現場監督たちはたいてい中国に行ったことのある者たちで、少しばかり中国語が話せた。私はその現場監督に話した。「あんたははっきり話してくれればそれでいいんだ。あんたが殴ると事態は紛糾する。そうだろう。みんな手を休めて見ているから、作業は停まってしまったじゃないか」。
 現場監督はその顛末を見て言った。「隊長、悪かった。あんたが指図してくれ。私はしばらく他のところに行って看ているから」。「いいだろう。あんたに替わってしばらく指図してみよう」。現場監督は自ら反省して引き下がったのだ。
 私は、すぐさま仲間たちに言った。「現場監督が人を殴るのは良くない。だが、みんな安全には注意しようじゃないか。これはむろん冗談事じゃない。仕事に戻ってくれ」。
 この一件を私は終業後業務日誌に書いたが、これが私の大きな過ちになる。これはあとの話だ。

 第2に、他にいつもの労働現場となったのは、東西岸壁の南岸壁埠頭だ。そこから南の方へ少し行くと、港湾を管理する事務棟があった。
 私たちは、毎日この建物の前で人数を報告し、現場の作業割当てを受取った。ここには鉄道の引き込み線があった。船から石炭を岸壁に降ろし、クレーンで貨車に積む。船内の貨物をウィンチに吊り下げたり、クレーンで荷揚げしたりする作業はみな人手に頼っていた。
 甲板でウィンチを操作するのは全部日本人で、しかも女性が多かった。ここで荷役をする者にも女性がいた。もしかしたら港運会社は彼女らを交替制で使っていたのだろうか。彼女らが中国人と話すことはなく、道ですれ違うときわずかに微笑んで見せるだけだった。私たち隊長に会うと、「チュータイチョウ(日本語)」とささやいて(なぜなら隊長は現場に出かけるとき「中隊長」と書いた腕章をつけていた)、通り過ぎていった。
 私は、日本帝国主義はこんなにも大きな戦争を仕掛け、国家を総動員していたのだから、人手は足らず衣食に困らない者はなく、男手がないから女も仕事に出ていたのだろうと思う。
 戦争はまったく確かに人力、物力の消耗以外の何ものでもなかった。

 第3に、もう1つの労働現場は、東岸壁埠頭だった。岸壁には何本かの線路があり倉庫があった。労働は同じで、船から降ろし、貨車に積み、倉庫に入れる苦役である。船が運んでくるのは大方木材、板材、紙ロール、それに木箱に入って中身のわからないものなどだった。太巻きの巻紙を積むときだけクレーンを使うが、その他のものはみな手で押し、揚げ、積み、引いた。どれもかなりの労力を要した。
 何人かの監督とはいっしょに働くうち気楽な仲になった。あるとき人夫が積み上げたベニヤ板のような木材が、きちんと積まれずメチャクチャになったが、その日は幸い私の引率日だった。監督が言った。「隊長、これじゃだめじゃないか」。
 私は言い返した。「監督さん、今回はこれでいいじゃありませんか。この次に揃えればいいんですよ」。彼は見るからにあわてて言った。「隊長、だめだ、だめだ」。彼は「だめだ」をいくつも連発した。
 「上部の命令で、この板材は軍用だからいい加減には扱えない」。「こんなベニヤ板、どんな軍用にするんですか」。
 彼はちょっとためらいながら小声で言った。「これで飛行機を造るんだ。傷つけたら責任を負いようがない」。「はい、はい、みんなにうまく積み上げるように言えばいいんですね」。彼も笑った。
 この埠頭の荷役がもっとも骨が折れた。食うものはなく、暖かい衣服もない者たちがこのような重労働をしなければならないとは、いかに苛酷なものであったことか。

 そんな条件のもとで、1つ話しておくべきことがある。
 私たちの昼飯を食べる場所のことだ。マントウ1個の食事は炊事班が運んできた。
 線路脇に小屋が1棟あって、港運会社が私たちにそこで食事をさせた。そこには毎日いつも50歳くらいの婦人が詰めていた。小さなかまどでお湯を沸かし、人に接するときの日本人女性の特徴で、物腰がとても礼儀正しかった。私たち苦役労働者に昼飯時しばらく休ませてくれ、熱いお湯を飲ませてくれて、風雨に濡れた衣服をかまどで乾かしてくれた。だからみんな彼女を尊敬していた。
 1945年の元旦、その日も引率に出かけた。礼儀として彼女に新年のあいさつをしなければと思い、出勤前に日本語を一言学んで行った。「新年オメデトウゴザイマス」。「新年好」の意味だ。彼女も言った。「アリガトウ。新年オメデトウゴザイマス」。「謝謝。新年好」を意味する。彼女は日本の習慣で角度90度のお辞儀をした。
 私は新潟に44年9月から45年3月までいたが、その聞この女性の態度はいつも変わらなかった。その他の隊長や労働者に対しても同じように接した。尊敬に値する女性であった。

 1945年3月のある日、私が現場で引率しているとき、突然2人の警官が現れた。
 3中隊長もいっしょだった。彼らは私の手荷物を持っている。どうしたことかわからない。
 1人の警官が言った。「(3中隊長を指差し)荷物は奴にわたせ。お前は警察署に行くんだ」(未熟な中国語)。私は腕章と麻袋の外套を3中隊長にわたした。私たち2人は無言のまましばし顔を見合わせた。私は何ごとか起こったにちがいないと思った。
 その2人の警官に新潟市警察署〔*水上警察署か〕に連れて行かれた。すぐ1室に放り込まれ、間もなく尋問が始まった。
 「お前は鄭光遠を知っているか」(中国語が上手い)。私は、鄭光遠を知らなければ何ごとか起きるのかと思案し、すぐさま答えた。「そんな人は知らない」。
 2人の警官は大振りに手をたたいて横長の腰掛けを1脚もってきた。私をその上に仰向けに寝かせ縛りつけて訊ねた。「知っているだろう。認めれば許してやろう」。「知らない」。
 彼は手を一振りして、1人が私を動かないように押さえ、もう1人がやかんの水を口と鼻から注ぎ込んだ。息ができない。
 私は最悪の事態を考慮し、何も言うまいと心に決めた。3人の愚昧な警官はもはや何も訊ねることなく私を監房に監禁した。
 3日目、同じ2人の警官に護衛されて新潟市を出発した。どこへ連れて行かれるとも私にはわからない。

 私は2人の警官に警護され、自分の手荷物をもって汽車に乗った。汽車は南に向かって発車した。ある町に着いて汽車を降り、車に乗り換えた。街路の標識を見ると広島市だった。
 しかし市内には停まらず、車はさらに郊外へと走った。山道をしばらく走ってある場所に着いた。門を見てそこが「加計警察署」と知った。すぐ監房に押し込まれた。しかし、長い間監禁されたまま尋問は一切なかった。
 日本の警察にどんな目論みがあるのかはわからない。だが私は鄭光遠が広島のどこかにいるのだと断定した。

 ついにある日、加計署のあの2人の、新潟にも来た愚昧な警官が、今度は通訳1人を同席させて尋問を再開した。「鄭光遠を知らないか」と問う。
 「新潟で話したとおりあんた方の言う鄭光遠は知らない」と答える。
 「お前はなぜ日本に不満があり恨みがあるのか」。
 「あんた方は、そもそもの始まりを知らないのか。いとも簡単な話で、日本人も中国人もはっきりわかっているじゃないか。私たち強制連行されてきた『労工』は、他の国だって安心して生活できる状態ではないが、日本ときたら食うものも着るものもなく、とんでもない現実なんだ。それでも満足しろというのか」。
 警官は険悪な形相になって怒鳴った。「バガヤロウダナ」。通訳が「お前はバカだって怒ってるよ」と言った。
 「お前たちは働きに来たのではなく、中国政府の命令で日本を破壊しに来たんじゃないのか。まじめに答えろ」。
 「今言ったじゃないか。あんた方の軍隊が中国から私たちを強制連行してきたんだ。中国政府が派遣してよこしたんじゃないよ。明白な事実じゃないか」。
 警官は私を床に押し倒して跪かせ、膝に棒を差し込んで2人が両端を転がしながら訊く。「認めるか認めないか」。すると私の両脚は折れたように辛くなった。
 「知らないものは知らない」と私は言った。
 彼らはもう何も訊こうとせずまた私を監房に押し込んだ。それからは長い間尋問はなかった。

 私は考えた。加計のこの小さな警察署は辺鄙な山の中にあるというのに、今やいつも空襲警報が鳴っている。警報が聞こえるだけで、彼らがどんな防空行動をとっているのかは聞き取れない。そうなると戦争はすでに日本の国土に上陸したのだ。実に面白いことになったじゃないか。だが日本にとってはこのこと自体、亡国を招く愚かしさと言うべきだろう。

 ある日、別の警官がまた私を連れ出した。そこは彼らの事務所の一室だった。机のわきにサーベルを腰に差した警察官吏らしき男が座っていた。彼は私を机の前に立たせ、私を連れてきた男に出て行くように合図した。私はとっさに彼は何をしようとしているのか考えた。尋問にはちがいなかったが、どうしてこんなやり方をするのか。通訳は使わず、部下を同席させもしない。彼の表情はいたって気楽に見える。私が思案をめぐらせていると、彼は口を開いた。
 「高清珍、お前はどうしても苦しい目に遭いたいのか。お前は今日本にいるのだから、日本の法律を遵守しなければならない。もしお前がみな認めたら、私はすぐにお前に腹一杯食わしてやる。どうだ、高清珍」。
 私はこの警官は中国語がなかなか上手いと思った。私はただちに答えた。
 「警察官さん、あんたのお気持ちはわかりました。私たち強制連行されてきた『労工』は未だかつて腹一杯食ったことがない。私は腹一杯飯が食えるというなら、あんたに嘘の供述をでっちあげてもいい。だが私にはそうはできないんだ。警察官さんにだって何もいいことはないだろう。それはあんたへの欺瞞になる。私にどうしてそんなことができるものか。あんたの言われる法律に関していえば、私は日本の法律を見たことがない。しかし、私は拷問を加えて供述を迫ることが、日本の法律にも適合しはしないと断定できる」。
 警察官が言った。
 「高清珍、お前は回り道することはないんだ。私は率直に言おうじゃないか。鄭光遠、賈登春、左保貴らはみな認めたんだ。しかもはっきりと話した。お前たちは中国の新華院にいるときしっかり相談した。食堂でいっしょに会議をしている。中国政府の指示を受けて日本に破壊にやって来た。そうだろう。お前が認めなければ、前例に倣い法律に従って処罰するまでだ。高清珍、どうなんだ」。
 「それならあんた方の好きなようにするがいい」。私がこう言うと、男は激怒し凄まじい剣幕ですぐさま罵倒した。
 「泣きを見るぞ。バガヤロウダ」。彼は私に手を机の上に置かせ、サーベルを抜いてねらいをつけた。中指と人差し指の先端から血が出たが、骨を傷つけるまでにはいたらなかった。彼は歯ぎしりして言った。「死にたきゃ死ぬがいい」。そして警官を呼びまた監房に閉じこめた。それから長い間尋問はなかった。
 この日私は賈登春と左保貴の名前を聞いたが、私は会ったこともなくまったく知らない。日本人警官が話したそんなことがあるとすれば、それも鄭光遠がでたらめに供述したのだ。

 ある日、例の2人の警官が私の手何物を持って、連れ出しに来た。今度はどこへ連れていかれるのだろう。私は彼らとともに車に乗った。車はもと来た道を走り、しばらく走って十字路のところで停まった。間もなくもう1台車が近づいてきて、私たちはその車に乗り換えた。
 乗ってみると車の中には鄭光遠がいた。ほかの2人は賈登春と左保貴にちがいない。病状の重そうな男が鄭光遠を罵っている。
 「鄭光速、お前って奴は何てこった。どんな駄ぼらを吹いたんだ。みんなを巻き添えにしてさんざん苦しめて…」。
 警官の1人がうるさくするなと彼を黙らせた。もう1人の男は罵ってはいなかったが、鄭光遠を怒りの目で見やっているのがわかった。私はそのとき彼ら誰とも話したくなかった。それより、日本人が私たちをどこに連れていこうとしているのか考えていた。
 車は広島市内に入りある建物の中庭で停まった。そこが広島裁判所であった。私の広島・加計警察署での生活はこれで終わった。

 私たち4人は車から降ろされて、舞台のような形のホールに連れていかれた。日本人がみな手配を終えてあるようだった。壇上には机があり、後方に四人の男が座っていた。中間の1人は中国の芝居衣装のような制服を着ていた。両側に座っているのは背広姿だった。
 私たち4人は下方に立たされた。背後には警官がいる。当然ながら、それは法廷であった。彼らは最後に判決を下すのだろう。加計警察署のあの警察官が言った通り、認めなければ前例に倣って日本の法律に従い、刑罰を科すのだ。
 壇上の左側の日本人が起訴状を読みあげた。通訳が訳し、制服を着た日本人が判決を言いわたした。
 「5年の刑に処する。罪を認めた者には1年の減刑により4年の刑とする」。
 法衣の男が手に私の新潟にいたときのノート〔*業務日誌〕を持ってしばらく話し、通訳が言った。
 「高清珍がノートに書いてある記事は、お前が日本に不満をもっていることを証明している」。
 広島地方裁判所で演じられた芝居はこうして閉幕した。

 私と鄭光遠、賈登春は、広島刑務所に収監された。左保貴は病が重く、どこへ連れて行かれたかはわからない。
 私たちがその刑務所の門に着いて見上げると、横書きに「中国監獄」の4文字があった。どうして日本にも「中国監獄」があるのか、私はほんとうに不思議に思った。
 刑務所の看守は私たちに自分の服を脱がせ、一人一人に青いチイパオ〔*女子のワンピースの中国服〕式の囚人服を支給した。日本の建物は当時みな木造だった。その刑務所も高くて大きい塀を除けば、内部の家屋は木造になっていた。ロビーを入ると東、南、西に放射線状に監房が並んでいる。
 私たち3人はもっとも西側の並びの1室に収監された。彼ら2人はそっぽを向き合っていたから、私が先に切りだした。
 「鄭さん、私たちは済南で劉功臣を通して知合って名前だけはわかるね。この人の名前はわからないが」。彼はすぐに「私は賈登春だ」と答え、「別の場所に監禁されたあの人が左保貴だよ」と言った。彼は病状が重そうだった。実に気の毒な話だ。
 その日初めて私たち3人はほんとうの知り合いになり、しかもそこで4年の刑に服することになった。何と日本に長くいることになったことか。

 刑務所の状況は次のようなものだった。

(1)日本の広島のその刑務所がなぜ「中国監獄」と呼ばれるのか。のちにわかったことだが、広島の地域一帯が中国地方と呼ばれ、そこにある刑務所だからということだ。

(2)監房では、毎日2回握り飯1個の食事をするときと夜寝るとき、便所に立つとき以外は、座っていられた。時間の概念はなく、月日や時間はわからない。ただ空が明るくなり暗くなればそれが1日だった。

(3)監房に座って何もしないでいるわけにはいかず、やはり労働に出かけなければならなかった。ある日、私たちは看守に伴われて大部屋に行った。その作業場にはいろいろな作業をする者がいた。銃を修理したり作ったりしている日本人受刑者もいた。私たちは封筒張りを割り当てられ、人の貼るのを見て貼った。紙は裁断してあり、折り畳み、糊付けし、平らに伸ばし、乾かすが、へらは竹片で、最後に一枚一枚重ねて束ねる。私たちはそれから毎日毎日この作業をしに出かけた。

(4)この時期、広島には毎日空襲があって、飛行機の爆音、地上で炸裂する爆弾の音に高射砲までがうなり、まことに騒々しかった。だが空中戦の音は聞こえてこない。それは日本帝国主義がもはやその力をなくしていることを意味した。空襲が過ぎ去るとみんなは〔*防空壕から〕作業場に戻り自分の作業をした。

 1945年8月6日、この日は私の終生忘れられない一日となった。むろん日付はのちに知った。
 その日看守は作業に呼びに来ず、私たちは房内で座っていた。飛行機の爆音は聞こえないし空襲警報もなく、看守が避難をさせに来ることもなかった。
 獄窓から青空が見えたから、たぶん8時か9時頃であったろう、窓外に突然雨が降るときの稲妻のような光が走った。大きな音は聞こえない。つづいて房内が暗くなった。手を伸ばしても指が見えない。監房も倒れた。私たちは空襲にちがいないと思った。監房の倒壊で入口が開いた。暗がりを手探りして防空壕の方へ這い出した。防空壕の入口にたどり着いたころ空が明るくなった。
 私たちは互いに見合うと、顔も手も炭坑から出てきた坑夫のように黒くなっていた。

 地表は一面に黒い。監房はみな倒壊しメチャメチャになった。刑務所の敷地内の樹木は霜に打たれたように枯れはてた。獄内に出火したところがあり消火していたが、刑務所の塀垣の外は真っ黒な煙があがり火炎が天を焦がしていた。塀垣だけは倒れていない。
 人々は当時空襲しか知らず、どんな武器の襲撃であるかわからない。刑務所の看守もあの尊大な警官もみなどこかへ行ってしまった。昼が過ぎてずい分経ったが彼らの人影は見あたらない。私たちは刑務所の外で畑に転がっている南瓜を見つけ、生でかじって飢えをしのいだ。
 誰も管理する者がいないから、私たち3人の中国人は好奇心に駆られ、塀の外の様子を見ようと刑務所の門を出て、右手の方へ川に沿った道を200㍍くらい歩いて行った。
 辺りは鎮火していたが家屋はみな消滅し、まったくの廃墟と化していた。さらに死体が道端に無残な姿をさらしている。遠方をはるか望み見ると焼け残った高い壁〔*原爆ドーム〕があった。広島の町は灰燼に帰した。

 私たち3人はまた刑務所に戻った。どこも出て行けるところがないからだ。夜になって看守たちは姿を現わした。彼らがどこから出現したのかはわからない。その日は倒壊した房内に寝た。翌日、広島刑務所から山口県の一地方に移動させられた。

 私たち10数人は警官に警護されて広島刑務所を出た。門を出て右手の方へ川に沿った道を歩いて行った。私たちをどこへ連れて行こうというのか。被爆当日見た情景がまた目の前に広がった。
 しばらく行くと左側に橋があって、橋は完全な形で残っていた。川をわたって曲がりまっすぐ行くと、もはや爆撃の痕跡が見られないところまでやって来たが、どこへ連れて行かれるのか途上ではまだわからない。
 午後ある場所に着いた。山口県のどこかだった。収監する場所も牛小屋のような粗末なものだった。ここにだいたい20日間余り監禁された。
 私はここで一種異様な光景を見かけた。ある日看守たちが銃器を縛って、しまいこむようにどこかへもって行った。私たちは日本人がなぜそんなことをするのか不思議に思って見ていた。明らかに根拠があったのだ。

 ある日、2人の警官が警護して、私たち3人の中国人と1人の朝鮮人を連れ出した。護送されて来たときと同じ道を歩かされているようだった。案の定広島へ戻された。
 午後広島刑務所の正門に着いた。彼らは準備万端整えているように見えた。
 門に入ると、看守は私たちを迎え入れたときと同様に門口に立って言いわたした。
 「戦争は終わり平和になった。あんた方は帰りなさい。これはあんた方の持ちものだ。囚人服を着替えなさい」。
 私たちは自分の服を着て手荷物を受取り、立ち去ろうとした。
 看守の1人が言った。「あんた方は今後また日本に来るかな」。
 私は即座に答えた。「また来る機会はあるだろう」。
 彼は当惑気に言った。「日本は良くない」。
 そして自分たちだけで話し出した。
 「日本語で言ったのに意味はわかるんだな。それにしても連中どうやって帰るんだろう」。
 もう1人が言う。「連中には連中のやり方があるのさ」。
 私たち4人は広島駅に向かって歩いた。日本での1年間の強制労働、監獄生活はこの日終了した。

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◆ 原    文 ◆
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2.我在日本一年来的情况

  在船靠岸后,大家就奉命上岸了。但是不见了那些日本兵,只有在青岛时像个商人模样的日本管理人员,还有一些穿白衣的像医务人员一样的人。翻译说:大家一路辛苦了,现在就请各队各班把衣服脱下连被子和东西捆在一起要蒸气消毒,完后大家站好队赤裸身体那些医务人员拿药水全身抹了个遍。这些搞完之后穿上衣服拿了自己的东西就吃早餐了,一看也使大家很失望,每人一个饭团,喝了些冷水而已。翻译宣布说:大家又要起程了,坐火车往大阪和新泻去,就出发了。火车到大阪后,我们中的第三队下了车,那个大队长也下车了。我们一、二中队继续乘车北行,就到了日本的新泻县的新泻市,驻进了该市的华工管理所,这就是我们作苦工的目的地了。

  我们这一、二队到达新泻市时是一九四四年的九月份,住在该市华工管理所,该所情况又如何呢?那天从下关乘火车只算吃早餐,车上未吃东西,晚上到新泻华工管理所,吃了一个馒头就算晚餐了,使人相当失望,预示着以后该所生活也不好。该所原来就有一百人,但他们生活、工作地点都与我们不同,也很少来往。没有多久又来了一百来人,就跟我们生活在一起了,原来的三队留在大阪他们自然就是第三队了。但是没有大队长,各队队员遇事三个队长商量,不过也方便,三个队长住一间房子内。该年九月份天气就很冷了,不出所料生活条件极差,吃不饱,穿不暖,每餐一个馒头不足二两,没有棉衣穿,更甚者有了病也无医生也无药。在一个基本是煤炭码头上装船卸船,装车卸车,堆仓库等港口机械化也不高,基本要劳力的而且风雨无阻。在这样的条件劳工能活多久?这是一个很残酷的现实。

  新泻市这个华工管理情况:该所与日本当时的一切建筑一样是木结构的,坐东朝西,有点像中国的四合院形式。大门左边牌子“新泻华工管理所”。一进门左手边是该所管理人员办公室,右边是日本警察门卫的房子。北边一排房是仓库和厨房。东边是二层楼房,原来那一百来华工就在此楼上住北头,南头无人住,南边一排楼房二层,我们三个队就住在楼上,此楼西头有二间,是死者诵经室用的,东边和南边楼下都没有用,该所周围是没有邻居的,这是华工管理所的情况了。

  我们做工的工地情况:它基本上是一个煤炭港口码头,有运木材的舱船和火车到达,而且作业岸线几条基本都是南北岸线,也有东西岸线的,当时卸船装包是人工,装火车有二种形式:一是用抓斗机装高架桥上的矿车再人工推车去装火车,二是人工装卷扬装火车,如船上运的是其他货物,除用船上吊杆把东西吊上岸外装火车堆仓库都由人工来完成。就那些工种而看,作起来还是相艰苦的。这就是新泻港的基本情况。

  我们这些被抓来的劳工是如何做工和生活的呢?我们三个队长住在一间房以便有事好商量,从工人中选了会搞炊事的组成炊事班,由我二队会讲日语的当了我们的翻译,有事好与日本管理人员打交道。但是伙食是很简单的,所方给的面粉一日三餐,每餐只一个不足二两的馒头,没有什么菜和油盐。不久天气也很冷了,新泻那个地方雨雪天气又多,都零下一、二十度了,大家仍然穿着从中国来时穿的衣服,没有棉衣穿。风雪无阻去港做工,那北风吹得难受极了。与管理所的日本人交涉无效,一次把所长也惊动了。

  这个所长是一个很瘦的小老头,带的翻译是个年轻人,叫石川,日语:“以溪卡瓦桑”即石川先生。把我们集合在院中讲了一次日语翻译是这样翻的:大家从中国来在这里做工,是很苦的,吃的、住的、穿的都很不好,但这是战争年代没有办法的呀,大家不是每天都有馒头吃吗?这还是照顾大家生活习惯的,也可以说是特殊照顾的。所长这个小胡子老头看样子就要结束了。我们三个队长一合议由一队长向所长提示:无论如何也得给大家解决御寒的衣服和鞋子才行呀?否则很难在港口把工作好。石川先生翻译后所长考虑了一下与翻译讲了几句,翻译说:所长说给大家解决一下御寒的物品,但现在还不能说给什么,想办法就是了。就这样结束了。过了些天还是想了点办法,每人发了一条麻袋和一双日本式大母指与其他指分开的胶鞋。

更甚者该所没有医生也没有药。有了病只能等死与所方交涉也没有用。我那二队死亡首先开始,大约是四四年的十二月份是父子两一起被抓来的,其中父亲年纪约四十多岁,儿子约二十来岁。我很久才知道他们是父子两的,因为他们二个的行动总是与其他人不同的,问他们才知道是父子两。其中父亲年纪大身体不好,这么一折磨就去世了,还请了日本和尚来念经,在那个葬仪房通过翻译我叫和尚多念经,因他儿还在这里,完后就到火葬场火化了,这叫什么生活,苦工真苦呀!

  我们常去做工的几个码头地点:

  一是最西边的装卸码头,船到之后工人要下船舱内装吊包,再岸上的装载机装高架上矿车,由工人推矿车装火车。就在这个做工地点有一天发生一起监工打人事件,那是我带班,忽然一个工人跑来说,队长,高架车那边一个日本监工打我们的人。我立即去了,原来是装吊包的工人没有听清楚,甲板上日本监工的指挥出了点事故。我立即制止了监工打人的行动,那些监工大都去过中国,会讲些中国话。

  我给那个监工讲:你事情讲清楚就行了,你越打人事情就越做不好,你说呢?大家都在看着,工停业了。日本监工一看这个场面,就说:队长,对不起,你来指挥一下吧!我到别的地方看看去,我说:那好吧,替你指挥一下,看得出这是监工自找台阶下。我立即与大家讲:日本监工打人不行,但是大家要注意安全呀!这可不是闹着玩的,大家作事去吧。这件事工后我记在笔记本上而且成了我一大罪状,这是后话。

  二是另一个经常劳动的工地是东西岸的南岸码头,往南远一点就是他们管理港口的办公楼了,我们天天在此楼前报到人数和接受分配工地的。这里有铁路线,船上卸煤到岸口,再由卷扬机装火车,装船内的吊包和装卷扬机都要人工来完成。

  在船上开吊机的都是日本人而且女的居多。在此劳动的也还有日本女的,也许港务当局对她们有所交代,她们不与中国人打交道,走路碰面只是一笑而已,碰到我们队长还自语声:“久代久”(日语)即中队长(因为队长去工地都带有袖章上写中队长),就过去了。我想日本帝国主义打这么大的战争,把国家也打光了,没有人也没有吃穿的,男的没有女的上了。战争是人力物力的消耗,这是一点不错的。

  三是再一个做工地点是东岸码头,岸上有几条铁路,有仓库,干的照样是卸船、装车、堆仓库的苦工。船运来的大都木材、木板、纸张以及不知装的什么木箱子,只有那一卷纸堆时用堆码机,其他东西都是人工推、搞、堆、拖还是相当费力的。有些日本监工在一起多了也就随便了。有一次工人在堆运来的三合板等一类木材,码的不整齐,横七竖八的,那天正好是我带班。他说:队长这样不行的,我说:监工先生,这次就算了,下次码整齐就是了。看样子他急了说:队长,不行,不行,他一连说了几个不行的,这是上边命令,这些板材是军用品,不能马马糊糊的。我说:这些三合板能搞什么军用?他犹豫了一下小声说:这些板材是造飞机的,如搞坏了,负不起责任的。我说:好,好,叫大家码好就是了,他也笑了。在这个码头上的劳动可以说最费力气的,叫这些吃不饱,穿不暖的人来搞这样的费体力劳动真够苦的。

  在那样的条件下,值得一提的是我们中午吃饭的地方。吃饭一个馒头是炊事班送来的。在铁道那边有一栋小木屋,是港务局叫我们去那里吃饭的,每天都有一位五十来岁的妇女在那里,用一个小锅炉烧水,待人接物也是日本女子的特性,很有礼貌的。我们这些苦工中午有个地方休息一下,喝点热水,因风雨无阻衣服湿可在锅炉上烤干。所以大家都很尊重她。一九四五年元旦那天也是我带班去的,按礼节也要向她拜个年的,所以出工前学了一句日语:“新年我米替她苟再一马司”,即新年好。她也讲:“阿里亚斗,新年我米替她苟再一马司”。即谢谢,新年好。她还日本习惯九十度鞠躬。我在新泻从四四年的九月至四五年的三月,这位日本妇女都是那样作的,其他队长及工人反映也是一样,是一位值得尊敬的妇女。

  一九四五年三月份的一天,我正在工地带领工人劳动,突然出现两个日本警察,还有三队长,还看他们拿着我的东西,不知怎么回事?其中一个日本警察说:你的交给他的(指三队长),你的警察署去的。(不熟的中国话)我就把袖章、麻袋大衣给了三队长,二人相视一下未讲一句话。我想一定出了什么事?就跟着那两个警察去了新泻市警察署,立即就关押在一个房间,不久就提审了,问:你认识郑光远吗?(中国话讲得不错),我脑子转了一下不知郑光远出了什么事?我立答:不认识这个人。那两警察大打件手,拿来一条长凳,把我脸朝天头下垂绑在凳子上,问;认识吗?承认就免刑。我说;不认识。他一挥手,一个按住我不准动,一个提壶水就口鼻灌水,使人透不过气来。我作了最坏打算决不讲什么。这三个混蛋警察没问出什么就把我进班房去了。第三天仍然由那两个警察押着我离开了新泻市,到什么地方去我也不知道。

  我还是被那两个警察押着带了自己东西上了火车,是往南边方向开的,到了一个城市下火车坐汽车,从街上的招牌看是广岛市,但在市里没有停又开往郊区了,汽车跑了一段山路就到了一个地方,门上一看便知原来是加计警察署。立即关进了一个房间,但是关了很久也没有问一句,不知日本警察在搞什么明堂?但我断定郑光远在广岛一个什么地方!终于有一天加计署那两个混蛋警察其实还是去新泻的那两个,不过加了一个翻译,就又开始审问了。

  问是否认识郑光远?我说:在新泻我就讲了,不认识你们说的郑光远,问;你为什么对日本不满意而恨呢?我说:你们不知从何说起?其实很简单日本人清楚中国人也清楚。如我们被抓来做劳工,把别国搞的民不聊生,日本也没有吃的,穿的,这多现实,还叫我们满意,日本警察一脸凶相得骂人:八各牙鲁的那,翻译说:他骂你是混蛋,问;你们不是来日本做工的,是奉中国政府之命来日本作破坏的,要老实回答。我说:刚才我讲了,是你们军队从中国把我们抓来的而不是中国政府派来的,这不是很清楚吗,日本警察把我按倒在地跪在地上,把棍子压在腿肚上两人来回滚,边滚边问:承认不承认?后来的我这两条腿像断了一样难受。我说:不认识就不认识,他们没问出什么就把我又关进班房去了。此后又很久没有审问,我在想,现在时常有些空袭警报,虽然加计那个小警察署在山旮旯里,只听警报没听到他们有什么行动来防空,由此断定战争打到日本国土上来了,真是大快人心,但在这件事上还要应付这些快亡国的混蛋。

  一天,一个日本警察又把我带出去了,是他们一个办公室的房间。桌子那边坐了一个挎腰刀的日本警察官模样的人,他让我站在他的桌子当头,示意那个带我的人离去。我在迅速思考他要搞什么?审问是肯定的,为什么这样?他不用翻译,不叫别人在场,看他的表情是很随便的样子,我正在思考他开腔说:高清珍你何必自找苦吃呢?现在你是在日本就得按日本的法律办呀!如果你都承认了,我立即叫你吃饱饭,高清珍怎么样?

  我认为这个日本警察中国话讲得还可以,我立即说:警察先生你的情我领了,但我们这些被抓来的劳工,从来都没有吃饱过,我如果为了吃饱一餐饭给你胡骗一套假口供,我不会那样作的,这对警察先生来说没有什么好处,这是对先生的欺骗,我怎么会那样作呢!警官先生你提到上次事,我虽没有看到过日本的法律,但我断定搞酷刑来逼供信,也不付合日本法律的。日本警官说:高清珍你不要兜圈子了,我可以直言告诉你,郑光远、贾登春、左保贵他们都承认了,而且讲得很清楚,你们在中国新华院时就商量好了的,在食堂一边开了会的,是根据中国政府指示来日本搞破坏的,不对吗?你不承认照样依法惩办的,高清珍怎么样?我说:那就按你们的办吧。我这样一说,日本人脑火了,凶像暴露,他立即骂人:哭拉,巴各牙鲁的。他叫我把手放在桌子抽出腰刀,照我手上就是一下,我的中指和二拇指尖都出血只是没有伤骨就是了。他咬牙切齿得说:你的死了死了的。他喊来一警察把又关起来了,以后又有很长时间没有审问。今天知道了贾登春和左保贵,我没有见过他们根本不认识,日本警察讲那些如果有的话也是郑光远乱供的。

  一天又是那两个警察把我带出来,还拿了我的东西。我想他们又要把我带到什么地方去?我跟他两上了一部汽车,走的还是来时的路,走了一段路后在一个十字路口停下了,没多久又来了一部车,我跟日本警察就上了那部车。一上车就看到了郑光远,那两个一定是贾登春和左保贵了。一个病得很重样子在骂郑光远:郑光远你这个混蛋,你胡讲了些什么,把这些人都牵扯进去害人好苦呀...。一个日本警察制止他不要吵,另一个虽然没有骂但可以看得出怒目而视郑光远,我当时不想与他们任何人讲话,看日本人把我们搞到什么地去?汽车开进市区在一个院内停了,这里原来是广岛裁判所,我在广岛加计警察署的那段情况就结束了。

  我们四个被带下汽车走进一个有舞台形状的大厅,看样子日本人都安排好了。台上桌子后面坐看四人,中间一个人穿戴像是中国戏服一样,两边坐的人都是穿的西装便服。我们四个就站在下边,背后有日本警察,这当然是法庭,他们要最后判决了,加计警察署那个警官讲得不错,不承认照样按日本法律判你的刑,台上左边那个日本人读了所起诉书...。翻译也译了,就是说过的那套,中间日本人就宣判了:应判刑五年,承认的好减刑一年即判刑四年。就中间坐的穿法衣的人手拿我在新泻的笔记本,讲了一阵后翻译说:高清珍在笔记本上记的可以证明你对日本不满意,在日本广岛地方裁判所这出戏就算演完了。

  我和郑光远、贾登春由日本警察押送到了广岛监狱,左保贵病重不知到什么地方去了。我们一到那个监狱门口抬头一看,上写横书“中国监狱”四个大字,我心想真奇,怎么日本国也有“中国监狱”。狱方警察就叫我们把自己的衣服脱下,每人给了一件兰色旗袍式牢服,日本的建筑当时都是木结构的。这个监狱除高大围墙外内部的房子也是木结构的。走进牢房大厅,朝东、南、西式的股钻心牢房。我们三个被关在最西边一排子的一间。看样子他们两个不想讲话就我先讲话了,老郑我们在济南认识的是通过刘勋臣才知姓名的,这一位我就不知姓名了!他立刻说:我叫贾登春,这样说:那一个关在别的地方的人就叫左保贵了,看样子他病得不轻,真叫人寒心呀!今天我们三个才算真正认识了,而且要在这里坐四年班房,可说来日方长呀!

  我们在监狱的情况:一.日本广岛那监狱为什么叫“中国监狱”?这是后来才知道的,因为广岛的那一个地方叫中国,监狱就在那个地方所以就叫成“中国监狱”了。二.在牢房内除了吃饭每天二餐每餐一个饭团,晚上睡觉解手外都只能坐着,牢房内没有时间概念,不知月日更不知几时了,只知道天亮天黑了就是一天。三.坐牢房也不能闲着还得去做工,一天我们被一个警察带去了,进了一个大房间看来那个工作间里干什么的都有,我们被安排作信封,看别人如何作我们就如何作了。信封纸都是裁好了的,折叠,胶好,刮平,刮子就是一块竹片,最后一扎一扎得捆起来就行了。从此以后我们天天去做这样的工。四.此时广岛几乎天天有空袭,飞机的轰鸣,地面炸弹爆炸声,高射炮声也真够热闹的,但是没有看到和听到空战声,这就说明日本帝国主义已经无能为力了,空袭过后大家回车间作自己的事。

  一九四五年八月六日,是我终生难忘的一天。这个八月六日是后来知道的,因为监狱内过日子是没有时间概念的,只知天黑天亮而不知几月几日,更不知几时了。那狱方也没有叫人作工,我们就坐在房内,也没有听到飞机的轰鸣声,也没有空袭警报,狱方也没有叫人们防空。从窗子看是晴天,大约八、九点钟的时候,窗外忽然像下雨时的闪电一样的光亮了一下,也没有听到大的响声,随即房内就黑了下来,申手不见五指,房子也倒了。我们意识这一定空袭,房倒门自开,摸黑朝防空洞的地方几乎是爬去的,刚到防空洞口,黑暗已过去天就就亮了。我们相互对视都像从煤矿里边出来的人样,脸手都是黑的,当时监狱情况:地皮都是一层黑,房子都倒了,乱七八糟的,监狱的树木像打了霜似的死了,监狱内有的地方着了点火人们把它搞息了,但监狱围墙外就浓烟滚滚火光冲天了,只有监狱围墙没有倒,当时大家只知道是空袭,也不知道是什么武器的袭击。也没有看到狱方管理人和那不可一世的警察都到哪里去了。中午过后很久也没有看到他们的人影,大家肚子饿了就去摘南瓜吃,没有人管,我们三人中国人加上当时的好奇心想知道围墙外的情况,就走出了监狱大门往右边沿河边马路走去,看了看大约走了二百米,大火已过所有房屋都不存在了,成了一片废墟还有的人死在马路边也真惨。朝前方远处望去,有一个高残的墙壁。广岛这个城市化为灰烬了。我们三个又返回监狱,因为没有什么地方可出的。那当天的晚边狱方的人员都出来了,也不知他们从什么地方冒出来的?当天晚上大家就睡在倒蹋的房子内。第二天就离开广岛监狱到山口县一个什么地方去了。

  广岛原子弹爆炸的第二天,我们十来个被警察押出广岛监狱,出门朝右手沿河马路走去。也不知把我们又要送何方?又看了一遍当天看过的情况。走了一段路后,朝左边过了河上的桥,桥还完整存在。过河后就一直转走去了,已经走到没有炸的痕迹了,他们要把这些人送到何方?在路上还不能知道。下午到了一个地方,是山口县的一个地方,关人的地方也很简单像关牛的栅栏一样。大约在这里关了二十多天,我看到一种特殊情况。一天该监狱方的人员把枪枝都捆了起来像收藏一样,拿走不知藏到什么地方去了,在我们看来很奇怪日本人为什么这样作?一定是有原因的。一天他们派了二个警察,把我们三个中国人和一个朝鲜人押着上路了,看得出来是我们被押来时的路。我们可能又要押回广岛。结果不错,下午就到了广岛监狱大门口。看来他们是准备好的,过大门都未进去,广岛狱方就像迎接我们一样就在大门口,就向我们宣布了:现在不打仗和平了,你们回去吧。这是你们的东西,把牢服换下来。我们就穿上自己的衣服,丢掉了牢服,拿起自己的东西准备走了。一个日本警察说:以后你们还到不到日本来?我立答:以后有可能还会来的。他无可奈何地样子说:日本不好的,还听他们之间说:讲的日语但意思还是听得懂的,即他们如何回去呢?另一个说:他们有办法的。我们四个人就朝广岛火车站走去,在日本的一年做劳工,坐牢房到今天算是结束了。 

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