2009/09/05

四.抗日戦争参戦時期の一時平常ならざる個人的体験

 1944年4月15日、私たちの機関が滞在する村が、突然、日本帝国主義の掃蕩部隊に包囲された。冀南銀行第四支店は、敵兵に6人捕えられたのだ。私はそのうちの1人だった。
 のちに臨清、済南に監禁され、飢えに苛まれながら、青島から船で日本に連行された。途中暴風雨に遭い、すんでのところで海底に葬られそうになった。
 日本に着いてから新潟の港の埠頭で強制労働をさせられた。食糧は足らず、寒さをしのぐ衣服もなく、病気になっても治療ひとつしてもらえない。
 その後また日本人に捕まり、広島刑務所に監禁された。
 45年8月6日、原子爆弾が広島に落とされ町は廃墟と化した。私自身も運命をともにしたが、幸いにも殉難を免れた。
 その年、8月15日、日本帝国主義は降伏した。私もすみやかに祖国に帰った。次にこれを詳しく述べてみよう。

1.私はどのようにして日本に連行されたか?

 1944年4月15日は、きわめて深刻な教訓を与えられた日となった。終生忘れられはしない。
 その直前、私たちの機関は、軍分区と専員公署から通知を受けた。「周辺の敵軍は各拠点に兵を充填しているから、おそらく近々規模の大きい掃蕩を実施するだろう。準備をしっかりしておくように」。しかし、翌日(15日)各県の主任会議を開かねばならず移転できない。
 この規律違反の遊撃戦は次の結果をもたらした。村は、未明、敵軍に包囲され、同志6人がともに捕まり、私はそのうちの1人であった。この教訓がいかに厳しいものであったことか。

 日本軍は企之県四合寨村で休んで、捕まえた人々を護送しながら、すぐに西南の方角に向けて出発した。その夜はある村に泊った。その村には明らかに住民がいなくなっていた。
 私たちは1室に監禁された。敵は食料も水もくれなかった。翌日、日本軍は邱県の県城の近くを通ったが、町には入らず左に曲がって邱館道路〔*邱県と館陶間〕に上がり道に沿ってまっすぐに東方を目指して進み、衛河をわたり冠県の町に着いた。私たちはいっしょにある孔子廟に閉じこめられた。この日も食べるものはなかった。
 17日、日本軍はふたたび衛河をわたり、西北の方向に進んだ。沿道でさらに数人捕まえ、その夜尖庄という敵軍の拠点に泊った。私たちはトーチカの最下層〔*地下になる〕に閉じこめられた。そこにはすでにたくさんの人々が監禁されていた。
 訊けば、彼らは要求された金や食糧を出せずに捕えられた平民だという。
 たぶん私たちが飢えている様子が見てわかったのだろう。その1人が私に高梁焼き餅〔*「餅子」〕をくれた。これこそ救命の焼き餅であった。このことは今でも忘れられない。残念なことにその人の名前も住所も知らない。
 18日、日本軍はまた東方に向かって出発した。さらに衛河をわたりしかも橋があって、そこは臨清とわかった。

 掃蕩をした日本軍は臨清から派兵されていたのだった。私たちはある傀儡警察署に監禁された。 
 その部屋は広さが約40余平方㍍で、40人以上の人たちがすでに収監されていた。私たち50余人が加わって室内は満杯になった。鉄柵のある窓の内側に監禁されてようやく縄が解かれた。
 毎日、午前1回1個の高梁焼き餅約1両〔*50㌘〕余りと冷水1杯を与えられ、午後5時に1回便所に行かされた。
 先に監禁された人たちから状況は悪化していくようだった。すでにある者は虐待されて死んだという。
 ある日、傀儡警官が部屋の入口で叫んだ。「今日は、みんな1人ずつ登録に行くんだ」。
 私の番になった。監房から出て左手に行くと、さほど歩かないうちに北側で南向きの小屋があった。
 机の向こう側に傀儡警官が2人座っていた。入ると立っているように言われた。1人は尋問し、1人は記録しているようだ。
 前の人がすでに話し始めていたので、私はどう答えるかひそかに算段した。    

 「お前の名前は何ていうか」…「高清珍
 「どこの出身か」…「河北省曲周県林子村」
 「何歳か」…「23歳」
 「職業は」…「郷里の村の小学校教師」
 「家にはほかに誰がいるか、名前は何というのか」…「母親ひとり、高程氏という」

 このようにして、どうやら質疑は終わった。前の人と同じだった。質問した傀儡警官が手を一振りし、私はまたもとの監房に戻された。
 敵はいかなる行動をとろうとしているのか。
 何日かして敵はいきなり、監禁されている人たちを済南に送ると言いわたした。済南に行って何をするのか、知り得ようはずもない。
 傀儡警察署に2台の大型トラックが、数人の日本兵とともに入ってきた。しかし、監禁されていた人々はみなトラックに乗るカがない。傀儡警官に支えられてやっと乗った。
 そればかりか彼らは「こいつらもうすぐ死ぬんだ」と言う。
 どの車も日本軍の警護付きで、それらの日本兵はまるで泥人形のように銃を捧げもっていた。
 車は臨清から東に向かって出発した。途中1人死に、死体は路傍に投げ捨てられた。車は停まりもしなかった。
 中国人に対する扱いは残酷なものだった。臨清に監禁された1ヵ月余りはこれで終わり、先には済南の日々が待ちうけていた。

 日本軍のトラックは、済南郊外の高い塀垣をめぐらした門の前で停まった。
 塀垣には電流を通した鉄条網が張ってあり、門前を日本兵が厳重に警備していた。日本兵が1人車を降りて守衛室に向かい、戻るとトラックは中に入った。
 このとき、私は正門の上方に横書きされた「新華院」の大きな3文字を目にした。
 車が停まると数人の男が回りを取り囲んだ。男たちはいかにも心得顔で、名簿を見ながら点呼を始めた。私たちは3組に分けられ、私と劉功臣という名の男がいっしょに1人の男に付き添われて、平屋建ての小屋に連れていかれた。
 付き添いの男は自分から名乗って言った。「私は、孔といい、この幹部隊の隊長だ。ほかはみな幹部隊の隊員だよ。一人一人紹介はしないが、しばらくいっしょにいれば、そのうちわかるさ。今日の新入りは、高清珍と劉功臣だ」。
 その小屋には3部屋あった。私たち2人は真ん中の1部屋に入れられた。どの部屋も板張りだった。しかし敷きものどころか掛けるものもなく、着の身着のままごろ寝するだけだった。
 これが初日「新華院」を一瞥してわかったことだ。

 この日本軍が建てた「新華院」とは、そもそも何をするところなのか。数日して当然知ることになる。
 もともと中国各地から人を捕まえてきて日本に送り、苦役させるところだった。いつのころから始めたのかはわからない。
 私がそこにしばらくいてみてわかったのは、次のようなことだ。
 ほとんど毎日、捕まえられた人々がやって来て、隊を編成した。隊長は幹部隊から任命された。
 1つの隊は隊長を除いて5班に組まれ、1班20人ずつで正副の班長が決められた。1隊101人になる。
 実際の管理は労工協会があたった。
 監視の日本軍兵は100人以上いた。彼らは東側の塀の外に住んでいた。
 簡単な訓練をしては日本へと送る。つまり強制拿捕、連行であった。その間隔は数日間に1回ぐらいだったろうか。たとえば私たちの場合、私を除くほかの人々は、何日もしないうちにすぐ日本に送られた。

 「新華院」に監禁された者はみなとんだ災難だった。
 朝、小さな茶碗1杯の粥飯、昼と夜は同じく小さい茶椀の高梁飯があてがわれるだけだ。もちろん足りはしない。着るものといえば、捕まったときのままだ。
 人々はひどく痛めつけられ、とんでもない有様で連れてこられるが、病気になっても治療してもらえず、病棟に放り込まれて天命を待つよりないのだった。10人いれば9人は死に、毎日馬車が死体を外に運びだした。私は見なかったが、「新華院」の外には万人坑があるとのことで、死体はその穴に投げ捨てられておしまいなのだという。
 この山東省済南の日本軍国主義者がつくった「新華院」で、いったい何人の中国人が迫害死させられたのだろうか。当時の日本帝国主義者と傀儡労工協会のみぞ知るだ。日々死体を運びだしたのだから、推測できようというものだ。

 人道に反してもっとも陰惨だった一場面を思い出す。
 ある日、日本軍は事務棟の前の広場に、収監者を呼び集めた。みんなが今日はどうしたことかといぶかしく思っていると、部隊長と呼ばれる日本軍の頭目と通訳、そして日本兵の一隊に引きずられて、一糸身にまとわぬ男がみんなの前に現れた。
 頭目と通訳は拡声器に向かって話し始めた。
 「みんな、よく見てみろ。これが昨日外に仕事に出た隙に逃げようとした男だ。こいつは逃げだせずに捕まった」。
 頭目は兵士に手で合図をした。その兵士は銃剣を取り出し、逃亡者の胸に狙いをつけてたてつづけに突き刺した。さらに、あろうことか、猟犬を放して死体を噛み千切らせたのだ。実に見るに耐えない惨状であった。仲間たちはみなうな垂れた。
 次いで頭目は言いわたした。「見たか。逃げようとする奴は、みなこれと同じ目に遭うぞ」。そこで解散になった。
 日本軍国主義とは何と残忍で非人道的であったことか。

 1944年8月、私も日本に送られることになった。「新華院」には2ヵ月余りいたことになる。幹部隊に別れを告げ、一般隊と同行した。
 傀儡労工協会は大隊長、3人の中隊長を集めて申しわたした。「このたび日本に行く1つの大隊は、3つの中隊で構成される。すぐに出発する。各隊は、私といっしょに衣服と布団を受取りに行く者を出してくれ」。
 私が隊に戻ってみると、各班2人ずつ出て、隊ごとに班長から服と布団をもらっていた。手にしてみると、以前日本に連行された人たちがもらったのと同じものだった。
 私たち300余人は、日本軍に警護されて済南から汽車に乗り、青島に送られた。翌日、石炭を運搬する貨物船に乗せられ、日本に向けて出航した。
 これこそほんとうの中国との別れであった。私たち全員が乗船すると日本軍は引き揚げた。船内で私たちを管理したのは、商人のような人たちだった。周りは海だったので逃げられはしなかった。

 船上での仲間たちの心情は容易に察しがついた。みな岸辺を見やって嘆息するだけだった。船は貨物船でさして大きくはなく、船倉の半分には石炭を積んでいた。私たちは甲板のテントの中で寝泊りした。
 船は山東半島に沿って東へと進む。連合軍の襲撃を免れるため、船は中国大陸と朝鮮半島の海岸線に沿って回り道をして航海した。たくさんの人々が船酔いをした。ある者は嘔吐し、トウモロコシ焼き餅を少しも食べられず、ただ横になってじっとしているだけだった。やがて岸辺は見えなくなり、明らかに船は遠洋を航海するようになった。
 ある日暴風雨に襲われ、船はまるで木の葉のように激しい波にもてあそばれた。
 日本人の1人が、大声で叫んだ。「カセ、カセ〔*風、風〕…」。だが、みんな何と言っているかわからない。
 私の隊の者が私の前に来て言った。「隊長、嵐だから早く船倉に入らねば」。そこで私はみんなに船倉に入るように指揮した。
 船倉に下りてから、彼に訊いた。「日本語がわかるのか」。彼は、「わかる」と言う。彼はもともと大連の電車の運転手をしていた。それ以来、通訳をするようになった。
 波浪は大きく、船の一番高い操縦台をも越える程で、実に危険であった。

 2日目、1中隊の1人が虐待による衰弱で死んだが、海中にぽいと投げ捨てられただけだった。これでも海葬に付されたといえるのだろうか。
 またある日の早朝、日の出とともに海岸線が見えた。みんなどこに着いたのか、日本だろうかと思案した。だが船の航路は着岸の方向ではなかった。太陽で判断すると南に向かって航行している。

 「たぶん朝鮮だろう」と言う者がいた。私もたぶんそうだろうと思った。のちにそうした判断が間違いでないことがわかった。朝鮮半島を過ぎてさらに東に進み、夜には日本の下関に着いた。夜は上陸しないので、翌日早く上陸した。これでとうとう日本にやって来たことになる。

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◆ 原    文 ◆
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四.我在参加抗日战争年代其中一段不平常的亲身经历

  一九四四年的四月十五日,我们机关住村突然被日本帝国主义的扫荡部队包围了,冀南银行第四分行被敌人抓去六人,我是其中之一。后临清、济南的关押和挨饿经青岛乘船去日本,途遇风暴险些葬身海底,到达日本后在日本新泻一个港口码头作苦工,吃不饱穿不暖,有病也不给治。以后又被日本人把关在广岛监狱。四五年八月六日原子弹炸了广岛,该城市变成一片废墟。我也身临其境但幸免于难,该年八月十五日日本帝国主义投降了,我也就立即回国了,下面将详述之:

1.我是怎样去日本的?

  一九四四年四月十五日是一个教训极其深刻的日子,我将永世不忘。此前我们机关得到军分区和专署的通知:周围敌人各据点增兵才可进行大规模的“扫荡”希作好一切准备,因明天(十五日)要开各县的主任会议而没有转移,这一违犯游击战的结果是;住村天未亮被敌人包围了,有六位同志被抓去,我是其中之一,这一个教训多么深刻呀:

  这伙日军在企之县四合寨是休息后就押着被抓到人朝西南方向出发了,当晚就住在一个村庄,显然村已没有人了,我们被关在一个房间里,敌人不给吃也不给喝的。第二天这些日军走在邱县城边,但未进城左转弯就上了邱馆公路,顺着路一直转东走去过卫河到了冠县城,住在一个文庙里,我们被抓的人关在一起,这是第二天没有吃东西了。十七日这伙日军又过了卫河朝西北方向走,沿途又抓到几个人,当晚在一个叫尖庄的敌人据点住下了。我们被抓的人关在炮楼最底层,而且里边已经关了很多人,经交谈知道他们是交不起钱粮而被关的老百姓。大概他们看出我们人饿得样子了,就有一个人给了我一个高粱饼子,这是个救命的饼子呀!这件事使我至今不忘,遗憾的是不知他的姓名和地址。十八日这伙日军又向东方出发了,又过卫河而且有桥,原来是临清了。

  这说明“扫荡”的日军是临清派出去的,我们就被关在一个伪警察所内,那间房大约四十多方米,原已关了四十来人加上我们就关的五十来人,房子已经满满的了,只是关在铁窗里边就不用绳捆绑了。每天上午给一次吃的,一个高粱饼约一两多,喝一次冷水,下午五点钟放出去解一次手,看得出原来先的人情况更不好,据他们说有的已被折磨死了。有一天伪警察在门口喊:今天每人都去登记一下,一个一个地去,轮到我了,出了关押房朝左手边去,没有多远进了一间坐北朝南的房子,一个桌子背后坐着二个伪警察,我进门就叫我站住了。看来是一个问一个是记录,因先来的人已经讲了我心中准备好了如何答复。

  问:你叫什么名子?        答:高清珍
  问:是哪里人?           答:河北曲周林子村人
  问:你今年岁多大?        答:今天二十三岁
  问:你是干什么的?        答:是我们村的小学老师
  问:家还有什么人?叫什么名子?  答:有老母亲一人叫高程氏    

  就这样算问完了与先问的人一样。那个问的伪警察一挥手,我又被押回原来关押的房子。说明敌人有什么行动了。过了几天敌人突然宣布要把在关押的人送往济南,去济南干什么也不得而知?伪警察所开进二辆大卡车还来了一些日本兵。但被关押的人都无力上车了,由那伪警扶助上车的,而且听他们说:“这些人算是留了一条活命”,每辆车上都日军押车,这些日本兵像泥塑一样端着枪。汽车从临清往东开去了,半路上死了一个人往车下一丢就完连车都不停,对中国人来说这多么残酷,我们在临清关押一个来月就此结束,前边就是济南了。

  日军的汽车在济南郊区一个有很高的围墙,有电网又有日军戒备森严门前停下了,一个日本兵下车到守卫室去了一下,回来汽车就开进去了,此时我看到大门上方的横联有“新华院”三个大字。汽车停下后围来一些人,好像他们都已安排好了似的,接过花名册就点名了,我们被分三伙,我和一个叫刘勋臣的人在一起,被一个人带走了,跟着那个人到了一栋平房的房间。他就介绍说:我姓孔是这个干部队的队长,他们都是这个干部队的队员,就不一一介绍了,在一起不久就会认识的,他说:这是今天新来的队员,一个叫高清珍,一个叫刘勋臣。那栋房子有三间,我们两个被安排在中间那一间,都是板子铺,但是既无铺的也无盖的,睡觉和衣一卧而已。这是当天对“新华院”一瞥的认识。

  这个日本军队建立的“新华院”到底是干什么的?呆了几天当然就知道了,原来是从中国抓人送到日本国内作苦工的,从什么时候搞起的不得而知。就我在那里一段时间,它的情况如此:几乎每天都有被抓来的人编成队,队长几乎都有干部派去,每队除队长外有五个班每班二十人有正副班长,共一百零一人,具体管理是劳工协会,简单操练后就往日本送,也就是说抓来送走。隔不了几天就是一次,如我们单位被抓来的人除我外其他几个人没有几天就被送到日本去了。

  在“新华院”对被抓去的人来说都是灾难性的,早晨一小碗稀饭,中午和晚上是一小碗高粱米饭,当然吃不饱,穿的都是被抓来时自己的衣服,来时人都被折磨得不像样子了,有病不给治往病房一送完了,听天由命,十有九死,每天都用轱轳马车往外送尸体。我虽未见过,据说“新华院”外有一个万人坑,往那个坑里一丢就完了。这个山东济南日本军国主义者搞的“新华院”到底迫害死了多少中国人?只有当时的日本帝国主义者和伪劳工协会知道。天天往外运尸体就可想而知了。

  最惨无人道的一幕,一天日军把“新华院”所有的人召集在他们办公大楼前的广场上,大家在想今天为什么这样作时?日本军队头目人称部队长的和一个翻译员及一队日本兵押着一个一丝不挂的人出现在大家面前,日军头目和翻译对着扩音器讲了几句话:大家看清楚了吧,这个是昨天到外边作工而想跑的人,可是他没有跑脱被抓回来了。日军头目向日本兵使了一个手势,那个日本兵端着刺刀对准苦工胸膛连刺二刀,这还不算,放出狼狗把尸体撕得粉碎。真是惨不忍睹,大家都低下了头,随即日军头目宣布:看到了吧,谁要是跑就是这样下场。就散会了。真是残无人道的日本军国主义。

  一九四四年的八月份我也要被送往日本去了,算来在“新华院”待了两个多月,告别干部队就到普通队去了。伪劳工协会把大队长及三个中队长召集在一起宣布说:这次到日本去的组成一个大队,三个中队,很快就要到日本去了,请各队派人跟我去领衣被。我回队就由各班去二人由一班长带队及领衣被,领回一看与以前去日本的人领的一样,由济南乘火车,日军押着把我们这三百来人送到了青岛,第二天乘了一艘运煤的货船就往日本航行了,这也真的要离开中国了。

  在船上,大家的心情是可想而知的,那也只能望岸兴叹了,这只船是货船并不大,船舱装了半舱煤炭。我们就住在船的甲板上的帐棚内,船沿山东半岛东去。很多人都不适应,有的还呕吐,连一点玉米饼子都吃不下,只能躺着不动。以后就看不到岸边,显然船到远海里了。一天遇到了暴风雨,船好像一片树叶,抛上浪尖和浪底,一个日本人大叫:卡赛卡赛...。但大家听不懂,我队里一个人到我跟前说:队长,大风暴快下船舱去,我就指挥大家下了船。到船舱后我问他,你懂日语?他说:懂,原来他在大连开电车的,以后他就当起翻译来了。海浪很大,连船最高的驾驶台都一越而过,真是惊险呀!第二天我们中的一个被折磨死了,往海里一丢就是了,是一中队的这也叫海葬吧。又一天的早上,太阳出来时看到海岸线,大家想这是到了哪里?是日本吗?但船的航行方向不是去靠岸,以太阳判断它是朝南航行的。有人说:可能是朝鲜?我看也可能是的,后来的结果这样的判断是不错的。航行过朝鲜半岛又东行晚上就到了日本下关,因是晚上就没有上岸,第二天早上岸,这就算真正到日本了。

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