2009/09/06

三.青年時代革命事業に参加した思い出

 私と張振鐸君は1937年8月石家荘鉄路学校を出発した。永年搭連鎮まで汽車に乗って行き、下車してから鶏澤県に向かって歩いた。県都に着いてみると大通りはごったがえしていた。私たち2人は母校に直行した。戦争の影響で学枚も授業を停止していたが、先生だけはまだ残っていた。私たちは先生に状況を報告してからそれぞれ自分の家に帰った。

 1937年の秋、日本軍の飛行機は河北省南部の各県庁所在地に狂ったような無差別爆撃をくりかえし、国民政府の軍隊と県庁の職員はみな持ち場を撤退しが、まだ日本軍国主義の地上部隊は到着していたわけではない。その頃は無政府状態になっており、各地で自衛組織がつくられていたから、いたるところに大小の司令部ができていたともいえるだろう。
 そうして1938年秋になると、国民革命軍第八路軍が私たちの県に進駐してきて、県知事に抗日政府の擁立を委任し、県、区、郷、村の各級抗日組織をつくっていった。冬になり、日本軍国主義の地上部隊も鶏澤県に到着し、県都を占領した。

 抗日政府は農村に引っ込んだ。以降、県の抗日戦争は次のようにくり広げられた。日本軍は兵員が少なければ県都にさえ出動しようとしないが、逆に多くなると、各抗日組織の方が広大な農村に展開し日本軍に応酬した。このようにして抗日勝利の日まで戦闘をくり返し、私個人もまた河北省南部各地区で戦った。それは次のようなものだった。

 1.1939年8月私は中国共産党に入党し、このときから革命への道程を歩み始め、早々に村の党支部組織委員を担当した。
 そのころの党組織はまだ公にされていなかった。
 ある支部会議での党支部書記の講話は、私にとって終生忘れがたい。
 「同志諸君、仕事は真面目に、党に責任をもち、党規律を厳格に遵守しなければならない。党員の身分を暴露してはならないし、いかなる党内の状況も党外の人に話してはいけない。それは、父母、兄弟、姉妹、妻、子女、親戚・友人をも含む。もし予想外のことが起こったら、たとえ自分が犠牲になってもいかなる同志のことも話してはいけない。これが鉄の規律だ」。
 それ以来、私は抗日革命闘争の活動において党組織が公開されるまでは、ずっとこの規律を遵守してきた。
 いま私は記憶も新たに思い出す。村の早い時期の党員は大方世を去った。今では、私1人が生き残っているだけだ。

 1939年11月、鶏澤県連絡事務所(県党委員会)から私に学習に行くようにとの通知があった。
 出頭してみると2人の顔なじみがいた。学友の張慶林(変名は張哲)と張振鐸(変名は張承教)だった。
 2人は学習内容を「党の基本知識だ」と言いわたし、同時に、「個人の姓名やどこそこの村だのと言ってはならず、各人順番に整理番号をつけられるから、ただその番号を呼び合うまでのことだ」との学習規律を申しわたした。私が1番だった。さらに私たちの今期学習班は基礎学力がもっとも高く、その他の同志はほとんど文字を読めないとのことだった。張承教が「1番がみんなの学習と討論を按配するように」と説明した。このようにして10数日間学習して終了した。

 1939年12月、私は翼南〔*河北省南部〕財経幹部訓練班に行って学習せよという県委員会の通知を受取った。
 県委員会に着くと、私を応接したのは張哲だった。彼は多くを語らず、「君が翼南財経訓練班へ学習に行くにあたって、3元辺幣〔*(晋察翼辺区=山西・旧察哈爾・河北3省にまたがる農村根拠地)銀行発行の貨幣〕を旅費として支給する。少し待てば君を案内する者を差し向ける。党組織の証明書は案内人が持参する」とだけ言った。
 私は、「自分は変名を張振元にしようと思う」と言った。彼は、「よろしい」と言う。張振元の名前はその日から使い始めた。
 案内人が到着してすぐ出発した。この人が何という名前かは永遠に知りようのない秘密だ。第3地区委員会に着くと応対してくれたのは王という同志だった。夜、私といっしょに学習に行くという同志がもう1人やって来た。その日はその村に宿泊した。

 翌日、鶏澤県委員会の案内人は戻って行き、地区委員の王同志が私たち2人に当面の情勢となぜ私たちを学習させるかについて、講義を始めた。
 彼はまずこう言った。
 「戦争の風雲は今まさに世界中に拡大している。日本軍国主義は中国を侵略するに止まらず、アジアの諸国家に侵略をしかけ、独・伊ファシズムはアビシニアとチェコを占領しただけでなく欧州の多くの国家を侵略した。従って、私たちは日本侵略者を追い出さなくてはならないが、それは難しく長引くことになろう。同志たちが任務に参加するには次のような心構えが必要だ。苦しくとも戦いつづければ私たちは勝利を勝取ることができる」。
 次に彼は講義の終わり際に言った。
 「これは情勢の発展につれて必要になってくることだが、私たちは敵の後方での戦いのすべてに自力更生をもってあたらねばならず、それ故、銃撃戦だけでなく各種の戦闘、その中にある貨幣戦を戦うということだ。中国の従来の貨幣は使えないから、各辺区の貨幣を発行しなければならない。君たちがここへ来るときに各人が何元辺幣かの手当てを支給されただろう。それが晋察翼辺区が発行した貨幣だ。私たち翼南も独自の貨幣を発行することになるだろう。それは晋翼魯豫〔*山西・河北・山東・河南4省〕辺区内で流通するものだ。いったん貨幣が発行されれば各級機構が樹立されていく。君たちはこの任務にあたるのであり、仕事をしながら学ぶしかなく、片手に銃、片手に貨幣の武器をとって敵と戦うのだ。規律を遵守し指導者に服従し、敵との困難な戦いにあって任務を立派に遂行してもらいたい。これから案内人に君たちを送らせる。道程はかなり遠く、敵の封鎖線も越えねばならない。同志諸君がくれぐれも用心し道中無事であることを望む」。

 私たちは第3地区委員に別れを告げ、3人で行軍を始めた。案内人が何という名前か知らないしまた聞きただすこともできない。これは秘密の交通ルートで、対外的に非公開だった。
 しばらく歩いてある村で休んだ。昼は封鎖線を越えることができず夜にならないと無理だからだ。
 案内人は、「今晩、邯館道路〔*邯鄲―館陶間〕を通過するときは、その村の武装要員に護衛してもらう」と言った。食後すぐ行動に移った。道を通り抜けるとき両側に敵のトーチカが見え、みな緊張したが、何ごともなく過ぎた。そのまま北の方角に向かって進み、しばらくしてある村に停まった。
 夜にならないと邢済路〔*邢台―済南間〕を通過できないので、まだ時間がありみんなで一眠りした。案内人は言った。「邢済路を通過するのは邯館路よりやや難しい。だが武装要員が送ってくれるから、同志たちはその指揮に従ってください」。間もなく6人の武装護送要員が到着した。出発してほどなく邢済路の傍に着き、音もたてずに道路に接近した。4人の武装要員が二手に分かれ私たちと距離を置き、地に伏して道の両側にあるトーチカの敵兵を監視した。
 道路の北側には深さ2、3㍍の排水溝があり、2人の武装要員がすばやく降りて、私たち3人をさっと昇り降りさせてくれ、彼ら2人は速やかに南岸に上がった。行動は機敏で無駄がなく整然と秩序だっていた。それからものも言わずにそれぞれの道を進んだ。私たち3人は東北に向かっておよそ二、三時間歩き、またある村に泊まった。
 案内人は言った。「同志たち疲れたでしょう。さあしばらく眠りなさい。明日から道は歩きやすい。道のりはまだまだだけれど、もう封鎖線を越えなくてもいいから昼進んで夜は休むことができる」。

 翌日、私たち3人は宿主に別れを告げ出発した。広宗県の県境内を歩きながら明日には威県の県境に入るころだった。
 案内人が多弁になり、ある村で昼食をとったとき彼は言った。「君たちと私の間柄は互いに打明けあうことは許されていない。これは組織規律だが、君たちはよく遵守しているようだ。君たちは学習に来たのだ。明日はいよいよ目的地、つまり翼南地区党委員会、行政行署〔*中国解放前や建国直後の地方行政機構。専署を統括〕、翼南銀行本店に到着する。どのように学習するかは彼らが取りはからってくれる」。
 私たちは垂陽に着くと地区党委員会の紹介状をもらい、翼南銀行本店のある楊常屯に行った。
 応対したのは本店の于志同志だった。昼食は彼が私たち3人の相手をしてくれ、さらに互いに自己紹介をし合った。
 食事のあと、案内人の同志は言った。「同志たちとはこれでお別れだ。君たちの名前は今日から公表できる。学習、任務、遊撃がこれから始まるね。さようなら。張、陳同志」。

 2.案内人を去ってから于志同志が言った。「君たちはまずここで少しお休みなさい。道中ご苦労さまでした。一眠りしてしばらく待ってください。私はまた来ます」。言い終えると出て行った。
 于志同志は戻って来ると私たちに本店の各課執務室を案内した。本店は合わせて3課1室を備えていた。私たちは社長と秘書に会った。

 その日、私たちは初めての行軍・遊撃戦を開始した。
 翼南銀行本店の同志たちは必ずしも同じ村に居住しているわけでもないのに、翼南軍区、地区党委員会、行政行署と行動をともにしていた。各課執務室の同志たちは荷物を担いでいたが、私たち新参者だけが自分の小さなかばんをもった。
 それにしても総務課の人たちが見当たらない。私たち本店の隊列がある村に行軍したとき、真っ先に総務課の王一農課長に会った。そして彼は私たちを泊まる場所に案内してくれた。
 途中私は王課長に訊ねた。「あなた方は早く来ていたのですか」。彼は、「私たちは先遣隊だよ。そうでなければ同志たちが来ても泊まる場所もないではないか」と言った。
 それ以降私たちは会計課で学習した。食事、宿泊、行軍、遊撃いずれも会計課の同志たちといっしょだった。
 会計課の責任者は、まず私たちに翼南銀行がどんな会計制度を実施しているかを説明した。それは収支式会計制度というもので、記帳者は顧客に対応して複式記帳法を運用し、各機関相互のすべての業務取引を記載して、銀行の現在の業務状況により設置された科目に応じて計算をする。
 例えば私たちは当面、本・支店処理、業務取引、金庫現金収支…等の科目を設置した。科目により元帳と明細帳をつくり、業務表に基づき伝票(記帳証票)をつくって各種明細帳に記載する。伝票によって10日ごとに旬表を作成し、旬表により元帳に記載する。月末に元帳に基づいて資産負債表を作成する。これが当面の銀行会計の計算過程だ。まだ業務は多くはなく、また複雑でもない。同志たちは見ながら実際にやってみて、早々に学びとることができた。
 会計課で一定期間学習したのち、私は総務課に転任になった。

 その日私は総務課に出頭し、部屋に入るなり王一農課長に会った。
 私が「課長のもとにまいりました」と言うと、彼は「張君、君たちは会計を学びに来たはずなのに、どうして総務をやりに来たのかね」と言った。
 「それはあなた方指導者にお訊きしたいことです」。「わかった、わかった、張君を歓迎するよ」。
 王課長の指導のもとで総務の仕事が始まった。
 総務の仕事は私のような駆け出し者にとって物珍しかった。実際、機関は毎日執務地点を変えた。ことわざにいうように、「兵馬未だ来らずも、糧食・飼料先に来る」〔*「備えあれば憂いなし」〕である。
 総務課は日々先遣隊で、私たちが食糧を調達して初めて同志たちが到着して飯にありつけるし、家畜に餌が与えられる。夕食後行軍の同志たちが去ってのちも、総務課にはまだ後始末が残されていた。
 こうして私は1ヵ月総務課で働いた。仕事はやはりとてもおもしろいものだった。

 ある日、課長が私に辞令を通知して言った。
 「張君、転勤になったよ。出かける準備をしなさい」。
 「どこへですか」。
 「新設の第四支店だ。銀行の大きな発展に必要なのだ。行ってしっかりやってくれたまえ」。
 私は総務課を発って于志のところ(本店で人事の仕事をしていた)へ行くと、さらに2人の同志がそこで待っていた。紹介されて、彼らは趙同順と趙何光で、いっしょに第四支店に行くのだとわかった。
 私たちは紹介状をもって新しく設立される第四支店に向かった。このとき本店を離れてからもう再び戻ることはなかった。

 趙同順同志が紹介状をもち、私たち3人は翼南銀行第四支店に到着した。
 実際、当時第四支店にはわずか5、6人しかいなかった。私たちを出迎えたのは肖主任だった。
 「君たちが来てくれることになって、これで支店もやっと設立される。すべての仕事が新しく始まる。今いる同志諸君がいわばみな銀行の開拓者だ。これから私たちはしばらくともに行動しよう」。
 そのころ支店は第4軍分区、第4専員公署〔*専署、省人民政府の派出機関〕、第4地区委員会と行動をともにしていた。
 支店でしばらく遊撃戦を戦っているうちに、多くの新しい同志がやって来た。支店は係を設け、会計、業務、出納、総務の各係がいずれも設置され始めた。しかし私たち本店から転属した3人はまだ手伝いのようなもので、正式な仕事は割り当てられていなかった。私は趙同順同志(本店から来るとき彼を責任者にきめていた)に、「私たち3人にはどうして仕事が割り当てられないのだろう」と訊ねた。彼は「支店にはおそらく何か考えがあるのだろう」と答えた。

 ある日肖主任が私たちに会いに来た。
 「支店は垂陽県に翼南銀行事務所設立を決定した。趙同順同志は主任、張振元同志は会計係、趙何光同志は出納係に任命する」。
 支店が紹介状を書くと私たちはすぐに出発した。

 1940年3月、私たちは垂陽県(元南宮県の一部)に到着した。
 県政府の所在地で何克県知事、各部門の同志、とくに財政課の同志と会った。
 まさにそのころ銀行は金庫代わりで、政府の収支すべてが銀行を通していたので、県財政課とのつきあいが多かった。
 県の指導者たちに、私たちは仕事の都合上単独で遊撃戦を戦うことを説明し、別れを告げた。
 このときから私たちは垂陽鎮周辺の各村で仕事をしながら遊撃戦を戦った。遊撃戦で敵の動きを探りに行くとき、趙主任はいつも私を趙君とともに行動させた。趙君は出納係で常に現金を背負って行動していたからだ。もっとも危険だったのは、私たち3人が離れ離れになり、2人の趙がどこへ行ったかわからなくなったときだった。

 私は何人かの見知らぬ人々といっしょに駆け回っていたが、いたるところで銃声がひびき敵がどの方角にいるのかわからない。
 私たちが敵情を探りながら砂の丘陵を越えたばかりのとき、真正面から2人の銃をもった人がやって来た。てっきり敵の便衣隊〔*平服を着て変装している武装部隊、遊撃部隊〕かと思いみな狼狽し、ある者は顔面が蒼白になった。銃をもった人はその様子がわかったのだろう。
 すぐに言った。
 「恐がらなくていい。私たちは八路軍の偵察員だ。君たち前に進んではいけない。向こうに敵がいる。この辺にしばらく隠れているといい」。
 これを聞いてみんなはまず驚き、それから喜んだ。味方の偵察員に出くわしたのはまさに幸運だった。さもなければ今ごろほんとうに敵の陣地に入っていただろう。
 私はこうして垂陽県銀行で4ヵ月余り会計の仕事をして、その年7月また転任になった。仕事を趙くんに引き継ぎ、彼が会計と出納を兼任することになり、私はすぐさま垂陽を離れ支店に向かった。

 支店に着いてから初めて清江県に行って仕事をするのだとわかった。
 この県も新しく成立した県で、ちょうど「7月7日」に新設された。
 抗日戦争はもう3年もつづいていた。
 肖主任は私を田向栄同志に紹介して言った。
 「君たち2人には清江県に行って仕事をしてもらう。田向栄同志は主任、振元同志は会計と出納係に任命する」。
 私たちは支店の紹介状をもって清江県政府の所在地に行った。村に入ってすぐ中庭に出ている人を見かけて、中に入って行った。
 一言訊ねるとその人こそ都合よく姫県知事だった。
 彼は紹介状を見て言った。
 「ようこそ。県の機構は成立したばかりで、すべて一から始まる。君たちはこれから政府とともに行動するのか、単独で行動するのか」。
 私たちは、「政府に面倒をかけたくないので、やはり単独で行動します」と言うと、「県の財政課の者も単独で行動しているから、君たちは彼らといっしょにやりなさい。みな地元の人たちだから状況がよくわかっている。楊常屯に泊るといい。私が手紙を書いてあげよう。政府はもうすぐ移転する」。 
 私たちは県知事に別れを告げ楊常屯に向かって歩き出した。

 到着して財政課の王丙南課長やその他の同志たちに会い、一人一人紹介し合った。今後私たちはともに仕事し、ともに生活し、ともに敵と戦うのだ。
 そこへふいに1人の老人が入って来た。
 王課長が「もう1人私たちの炊事係の『二把師』〔*2番目の親方の意〕がいたじゃないか。これはみんなが彼につけたあだ名だ」と言った。
 彼がつくるマントウは一種独特の風味で、縦に細長い形をしていた。
 かくして私は清江県銀行で1年仕事をした。銀行の通常業務以外にも、私と田向栄主任は町に出かけ使い古した紙幣を両替した。
 この付近は敵に対する闘争の条件がますます困難になっていた。当時の戦局について特筆すべきことは次の2点である。

(1)日本軍は根拠地を二分割した。
 つまり南宮から邢済路上の王宮荘まで1本の道路をつくってトーチカを林立させ、掃蕩も頻繁になった。私たちの常駐する村とこの道路はとても近いのでそこを避け、私たちは南に向かって移動し、南北候貫一帯で遊撃戦を戦った。

 (2)世界の戦局はすでに極点に達していた。
 欧州の戦場は独・伊ファシズムが欧州国家の大部分を占領し、ソ連のモスクワにまでも侵攻していた。ソ連とドイツの戦争は決戦の色合いを帯び、日本帝国主義は中国を侵略したばかりでなく、アジアの幾つかの国を占領しなおかつアメリカにまで攻め入っていた。つまり太平洋戦争の始まりである。世界大戦の結果を予測するのは当時まだ難しかった。

 ある日、田向栄主任は支店から戻って来るなり言った。
 「振元同志、君は会計と出納の仕事を私に申し送ってくれ。支店は君の転任を決めた。今度は邢済路付近の広曲県らしい。紹介状は私が預かっている。仕度をしたまえ」。

 私は紹介状をもって清江県を出立し、邢済路の封鎖線を越えて企之県境内に着いた。ついでに企之県銀行に立寄ってみようと思った。というのも邢済路を通る者は、みなこの銀行にいる人たちをよく知っていたからだ。
 企之県銀行に着くと尹之明主任は私を一目見て少し考えながら、「振元同志、待っていたよ」と言う。
 私は彼らの言動に驚いて言った。「あなた方は何を言っているのですか」。
 尹主任は、「支店は君をここに転勤させたのだ。君はまだとぼけているのか」と言う。
 「とんでもない。これは私に広曲県に行けという紹介状じゃないですか。道すがらみなさんに会いにきたのですよ」。
 「君はなかなか話がうまい。だが来るのは遅れたね。支店の紹介状はすでに私たちの手元にあるんだよ」。見てみるとほんとうにそうだった。
 私は言った。「尹主任、私はまだ着任していないんですよ。あなたという主任は、転勤を途中で打切ってしまうなんて何てひどい」。みんなどっと笑った。
 彼はすぐに、「こちらが新任の張振元主任です」と紹介し、その他の同志を一人一人紹介した。
 彼は、「これではっきりしたじゃないか。わざわざ広曲まで君を探しに行く手間が省けたよ」と言い、私が「ほんとうにあなたのお陰で、仕事の方から私の目の前にやって来た」と言って、みんなが笑いお開きになった。私と尹の引継ぎが終わり彼は支店に戻った。こうして私は企之県銀行の主任になった。
 
 私は企之県銀行で1年働いた。この間の仕事の状況は次のようなものだった。

(1)銀行の業務範囲が拡大した。銀行を通じて一部の商店に投資し、代理店を設立して、為替業務も取扱いを開始した。紙幣は額面価格50元まで発行され、市場に偽札も出回り出した。これらいずれにも力を注がねばならなかった。

(2)日本帝国主義軍隊による掃蕩も頻繁になっていたので、常に敵の動きを探った。

(3)私のところの幹部はみな地元の人だったから、夜になると家に帰った。それで敵に動きがあるときは、炊事員か通信員のいずれかが私とともに遊撃戦を戦った。

 あるとき、炊事員の張勤功が私といっしょに敵の動きを探っていた。
 砂漠の中の林まで来たとき周囲に銃声が聞こえた。
 張勤功が私に訊いた。「張主任、周りは敵だらけだ。どっちに行けばいいと思う」。
 私は、「勤功同志、私たちは走ってはいけない。敵に出くわしてしまう。砂漠の中にある小さな村の黄河套に行ってみたらどうだろう」と答え、その村に着いた。
 村には人影がなく、周囲の村々から銃声が聞こえた。
 私たちはじっとして敵が動きを変えるのを待った。
 午後3時過ぎ、周辺の村が静かになり敵が去ったことがわかった。こういうときこそ肝腎でますます冷静な判断が必要だ。つまらぬ目にあうわけにはいかない。
 翼南銀行第四支店は邢済路の南の企之県一帯で活動したのち、企之県銀行は撤収した。金庫を管理する幹部は県財政課に復帰し、出納員や通信員、炊事員もみな家に引き揚げ、私だけが支店に戻った。

 1942年8月、私は支店に着いてのち出納係長を任命され、紙幣の出し入れ業務に従事した。
 当時支店の主任は王一農(本店のときの総務課長)、政治委員は顔志敏(そのころ銀行は軍隊の系列に属していたので政治委員は軍分区から派遣されていた)だった。
 私は支店で2年近く働いたが、その間支店の指導者は何度か異動した。しばらくして王一農主任と顔政治委員は転出し、武任真主任(本店秘書の賈王甫、変名が武任真)と張浩天政治委員に代わった。またしばらくして武任真主任が転出し、王一鳴主任になった。中間幹部は異動がさらに多かったが、私だけは異動がなかった。

 ほかに特筆すべきことがある。

 第1に、42年と43年、翼南の地には天災のうえに人災が重なって襲いかかった。
 日本帝国主義軍隊による放火、虐殺、人狩り、掠奪、さらに、2年間雨が降らない自然災害によって、見わたす限り剥き出しの赤土が拡がっていた。人々の生活状況は想像に難くない。

 次にこの年、1944年の世界の戦局についても触れておこう。
 中国の抗日戦争も7年、世界大戦もすでに5年経過していた。欧州とアジアの戦場では連合軍が反撃し、年内にドイツ、翌年には日本を打ち破って決着をつけると方針を打ち出した。
 世界中の人々が独・伊・日ファシズムに最後の一戦を挑んでいた。それこそ独・伊・日ファシズムの終焉が迫りつつあった。

 1944年4月15日は、終生忘れることのできないきわめて厳しい教訓を与えられた日となった。
 夜がまだ明けぬころ、私たちの滞在する村が日本帝国主義軍隊に包囲され、私たちのうち6人が捕えられた。私がその1人だった。
 それから臨清、済南、青島を経て日本に連行され苦役に服し、投獄され原子爆弾の被害に遭って、日本帝国主義が降伏してからやっと祖国に戻った。

 以下は私がどのようにして翼南銀行第四支店と祖国を離れたかの記録である。

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◆ 原   文 ◆
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三.青年时代参加革命工作记忆

  我和张振铎同学于一九三七年八月离开石家庄铁路学校,乘火车到永年搭连镇下火车就朝鸡泽县走去,到达县城后大街上乱纷纷的。我们俩就直奔母校,因战争关系学校也停课了,只有老师还在学校。我们两个给老师讲了情况就各自回家走了。

  一九三七年的秋天,日军飞机对冀南各县城都进行了狂轰烂炸,国民政府的军队和政府人员都撤离了,但日本军国主义的地面部队并未到来。当时形成无政府状态,各地成立了一些自卫组织,也可说司令大小遍地司令部。一直到一九三八年秋,国民革命军第八路军进驻了我们那个县,委任了县长成立了抗日政府,组织县、区、乡、村各级抗日组织,到了冬季日本军国主义者的地面部队也到了鸡泽占领了县城。抗日政府就到了农村。以后鸡泽县的抗日斗争就是这样展开的:日军人少就连县城都不敢出来,日军人数多了,各抗日组织就在广大农村与他们周旋,就这样一直战斗到抗日胜利,就我个人而言在抗日战争期间在冀南各地战斗过。现述如下:

  一.一九三九年八月我参加了中国共产党,从此正式走上了革命征程,很快担任村党支部的组织委员。那个时候的党组织这是不公开的,一次支部会上党支部书记的讲话使我终生难忘,他说:同志们,作事要认真,要为党负责,严格遵守党的纪律,不准暴露党员身份,不准对党外讲任何党内情况,包括自己的父母、兄弟、姐妹、妻子、儿女、以及亲戚朋友,如有意外宁可自己牺牲也不准讲出任何同志,这是铁的纪律。以后在抗日的革命斗争活动中,党没有公开前我都是这样遵守的。我现在回忆起来都记忆犹新,我们村的最早的几个党员大都去世了,现在来说只剩下我一个了。

  一九三九年十一月鸡泽县联络站(即县委会)通知我去学习。报道后一看原来两熟人:张庆林(化名张哲)、张振铎(化名张承教)同学,他们两个就宣布学习内容:党的基本知识,同时宣布了学习纪律:不要个人的姓名,什么村庄,每个人都编了号只叫号就是了,我是一号。而且是我们这期学习班文化最高的,其他同志可以说都是文盲,张承教介绍说:由一号来组织你学习和讨论,就这样学习了十多天就结束了。

  一九三九年十二月,我接到县委通知叫我去冀南财经干部训练班去学习。我到县委后这次接待我的是张哲,他没有多讲只是说:你去冀南财经训练班学习,给你三元边币(即晋察冀边区银行发行的货币)作路费,等一下派一个人送你,组织关系由送你的带着,我说:我应化个名子就叫张振元吧,他说,可以。张振元的名子是那天开始用的,送的人一来就出发了,此人叫什么名子那是永远也不能知道的秘密,到第三地委后接待的是一个王同志,晚上又来了一个同志,据说与我一同去学习的,当时就住在了那个村子。

  第二天,鸡泽县委送我的人就回去了,地委王同志给我们两个上了一课:当前的形势和为什么叫你们去学习,他首先说:战争风云在世界上正在扩大,日本军国主义不但侵略中国又向亚洲其它一些国家发动侵略,德意法西斯不但占领了阿比西尼亚和捷克又侵占了欧洲许多国家,所以我们要把日本侵略者赶出去将是难苦的也是长久的。同志们参加工作要有这样的思想准备,难苦奋斗下去直到我们取得胜利。其次他讲到学习时说:这是形势发展的需要,我们在敌后抗战一切都要在自立更生上去进行,所以不但有枪战还有各种战斗其中就有货币战。中国原来的那些货币不能用了,要发行我们各个边区的货币。你们来时不是每人发了几元边币津贴吗?那是晋察冀边区发行的货币。我们冀南也要发行自己的货币。它就在晋冀鲁豫边区内流通。货币一发行各级机构都要成立,你们就是去搞这一工作的,只能边干边学,一手拿枪一手用货币武器与敌作斗争,你们遵守纪律服从领导,在对敌艰苦斗争中把工作搞好,现在就派人送你们,路还很远,又要过敌人的封锁线,希望同志们多加小心一路顺利。

  我们告别三地委,三个人就开始行军了,送我们的人叫什么名子?不知道也是不能问的,这是一个地下交通线,对外是不公开的。走了一段路后,在一个村庄休息,因为白天不能过封锁线,晚上才行。送的人讲今晚过邯馆公路由该村武装人员护送,吃罢饭就行动了,过路时看到两边敌人的炮楼心情都很紧张,但平安的过去了。就继续朝北的方向走去,走了一段路后就在一个村庄停下,因为晚上才过刑济路,还有时间大家就睡了一觉。送的人说:过邢济路比过邯馆路难些,但有武装人员护送,同志们听指挥。不久六个武装护送人员就来了,我们出发不久就到了邢济路边,静悄悄得接近公路。四个武装人员分两边与我们保持距离后就外侧监视两个炮楼敌人:公路北侧有护路沟,有二、三米深,两个武装人员迅速下去,帮我们三人迅速下沟和上沟,而他们两人就迅速上了南岸,行动都干脆利落,有条不紊的,然后都连句话不说就各行各的路了。我们三个朝东北方向走去了,大约走了二、三个小时又在一个村庄住下了,送的人说:同志们都累了吧,那就睡一觉,从明天起我们的路就好走了,虽然我们的路还要走,但不过封锁线了就可昼行夜宿了。

  第二天,我们三个告别房东继续上路了,是走在广宗县境内,明天就进威县境了。这个送我们的人话多了起来,中午在一个村庄吃饭时他说:你们两个和我之间的情况不允许互相交谈的,这是组织纪律看来同志们都遵守得很好,你们是来学习的,明天就到达目的地,即冀南区党委、行署、冀南银行总行,怎样学习就由他们安排了。我们到垂阳拿了区党委的介绍信就到了冀南银行总行住地杨常囤。接待我们的是总行于志同志,中午饭是于志陪同我们三个吃的,并且互相作了介绍。饭后送我们的同志说;我就向同志们告别了,你们的名子从今天起就可公开了,今后的学习、工作、游击才开始呢,再见,张、陈两同志。

  二.我们在冀南银行总行的学习,送我们的人走后于志同志说:你们先在这里休息一下吧,一路辛苦也很累了,睡一下等一下,我再来,说罢就出去了。等于志同志回他就带我们到总行各科室看了一下,总行共设三科一室,我们见到了经理和秘书。

  当天我们开始了第一次行军,也叫打游击。不过冀南银行总行是跟冀南军区,区党委和行署一起行动的,虽然不一定都住在一个村庄。各科室的同志们都背了东西,只有我们新来的同志拿了自己的小包包。但是没有看到总务科的人。我们总行行军到一个村庄时,首先看到了总务科的王一农科长,并带我们去看住的地方,路上我问王科长,你们来得早呀?他说:我们是“先行官”吗,否则同志们来了就无地方住,以后我们就到会计科学习了,吃、住、行军、游击都与会计科同志在一起,会计科负责同志首先向我们讲了冀南银行实行的是什么样的会计制度。它叫收付式会计制度,记帐者是以第三者出现的运用复式记帐法,记载这个单位与其它单位的一切业务往来。根据银行现在的业务情况设有相应的科目来核算。如我们目前设有:总分处所,业务往来,金库往来现金...等科目。根据科目设总帐及明细帐,根据业务单据作传票(即记帐凭证)记各种明细帐,依传票十天造一旬表,依旬表记总帐,月底根据总帐造,资产负债表,这就是目前银行会计核算的过程,现在业务不多,也不复杂,同志们去看一看,具体作一作,很快就会学会的,我们在会计科学习了一个时期后,我就调到总务科去了。 

  那天我去总务科报到,进门就见到了王一农科长,我说:来向科长报到了。他说:小张,你们不是来学会计怎么来搞总务了?我说:这要问你们这些领导了,他说:好,好,欢迎小张同志。在王科长领导下,干起总务来了,总务工作对我这个初出茅庐的人来说,也是新奇的,实际上机关一天一个地方。常言说“兵马未到粮草先行”,所以说,我们总务科天天都是先行官,筹到粮草同志们到后才有饭吃,牲畜有草吃。一般晚饭后,行军同志们走后,总务科还要留下一个作善后工作。就这样我在总务科干了一个来月,对工作还是很有兴趣的。有一天,科长通知我说:小张同志,你的工作调动了,准备走吧,我问:调到哪里去?他说:是成立的第四分行,这是银行大发展的需要,去吧,好好干呀!我就离开总务科,到于志处(总行搞人事工作的)还有两个同志在那等着,介绍知道是赵同顺、赵何光,一同到第四分行去的。我们拿了介绍信向新成立的第四分行走去,从此离开总行以后再也没有回过总行了。

  由赵同顺同志持信,我们三个就到了冀南银行第四分行。其实当时第四分行只五、六个人。接待我们的就是肖主任:知道同志们要来,分行也才成立,一切工作都是从头开始,对现在的同志来说,都是银行的开拓者,现在我们都暂时一起行动。当时分行是与第四军分区,四专署四地委一起行动的。在分行打了一段游击,来了不少新同志,分行是设股的,会计、业务、出纳、总务股都建立起来了。但我们三个从总行来的好象还帮忙的性质,也就是说没有分配正式工作。我就问赵同顺同志(从总行来时指定他负责的)我们三个为什么不分配工作?他说:分行可能另有打算。一天肖主任找我们谈话说:分行决定在垂阳县建立冀南银行办事处,由赵同顺同志任主任,张振元同志任会计,赵何光同志任出纳。分行写了介绍信我们三个就出发了。

  一九四零年三月,我们到了垂阳县(原南宫县的一部分)。在政府住地见到了何克县长以及政府各部门的同志特别是财政科同志,正因为当时银行是代理金库的,政府的一切收支都要通过银行,所以与县财政科来往是很多的,给县领导说明,为了工作方便我们自己行动打游击。我们告别县政府的同志们。从此我们就在垂阳镇周围各村边工作边打游击了,在打游击跑敌情时,赵主任总是叫我与小赵走在一起,因小赵是出纳员身上常背着现金行动的。最严重的一次,我们三个都跑散了,也不知两个赵都跑到什么地方去了?我和几个不认识群众跑在一起,到处是枪声也不知敌人在什么方向?我们这几个跑敌情的刚翻过一个沙岗,迎面来了两个带枪的人。以为是敌人的便衣队都傻眼了,有的面如土色,带枪的人大概看出来了,立即说:大家不要怕,我们是八路军侦察员,你们不要往前跑了,那里有敌人,就在这一带隐避一下吧,这一讲使大家先是一惊后是一喜,否则真会跑到敌人圈子里去的,碰到我们部队的侦察员真是一幸。我就这样在垂阳县银行搞了四个来月的会计工作,已是该年七月我的工作又调动了,我将会计工作移交给小赵,他就会计,出纳双肩挑了,随即离开垂阳到分行去了。

  我到分行后才知道是去清江县工作,这个县也是新成立的县,正好是“七·七”建县,抗日战争已进行三年了,肖主任就把我介绍给田向荣同志,并说:你们两个是去清江县工作的,田向荣同志任主任,振元同志任会计和出纳。我们两个持了分行的介绍信就往清江县政府住地走去,一进村就看一个有人进出的院子,就进去了,一问真巧正问到姬县长,他看信后说:欢迎同志们到清江县来工作,县机构才成立,一切都从头开始,你们今后是与政府行动还是单独行动?我们说:还是单独行动吧,不给政府添麻烦。他又说:县财政科也是单独行动的,你们就与他们搞在一起来吧,他们都本地人情况熟悉,就住杨常屯。我给你们一封信就去吧,政府很快就要转移了。我们告辞了县长就朝杨常屯也走去。

  到后就见到财政科的王丙南科长,及其他同志都作了一一介绍,今后我们就工作在一起,生活在一起与敌人斗争在一起了,忽然又进来一个小老头王科长说:这不还有我们的炊事员“二把师”,这是人们给他起的外号。他作的馒头别有一翻风味,是长条竖起的形状。就这样,我在清江县银行工作了一年,除银行正常工作外,我和田向荣主任去集镇兑换烂钞。这一带对敌斗争的环境越来越艰苦了。当时的战局值得一提的是:

  一.日军把那块根据地一分为二了,即南宫到邢济路上的王官庄修了一条公路,碉堡林立,扫荡也频繁多了。我们常住的村庄离这路太近了,就向南移到南北候贯一带打游击。

  二.世界战局已打到最高峰了,欧州战场德意法西斯已占领了大部分欧州国家打到苏联的莫斯科城下,苏、德战争带有决战性质,日本帝国主义不但侵略中国,占领亚洲一些国家而且进攻美国了,也就是发动了太平洋战争。世界战争结局在当时还难以料到的。

  一天,田向荣主任从分行回来,一见面就说:振元同志你把会计、出纳交给我吧。分行已经决定把你调走了,据说是到邢济路那一边的广曲县。并把介绍信交给了我,准备走吧。

  我持信离开清江县越过邢济路封锁线就到企之县境内了。想顺便去企之县银行看一下,因为来经过邢济路都要在该行停留的都熟悉,就到了企之县银行。尹之明主任一见我微加思索地说:欢迎,振元同志到来。他们的行动使我一怔,我说:你们这是作什么?尹主任说:怎么分行把你调到这里来,你还装糊涂?我可不装糊涂,你们开什么玩笑?这不我的介绍信是到广曲县的,路过此地来看一下同志的。尹主任说;你讲得不错,可你迟到了,这不分行的信已到我们这里了。我一看果然。我说:尹主任,我还未到任,你这个主任呀,就中途截留了,真厉害呀!大家都笑了,他就立即介绍说:这是新来的张振元主任,把银行其他同志都一一作了介绍,他说;这不都清楚了,也免得我去广曲找你。我说:真有你的,把工作做到我的前边了,大家一笑了之。我与尹交接完后他就回分行了,我这就算是企之银行主任了。

  我在企之县银行工作了一年,此期间工作情形是:一.银行工作范围扩大了,由银行投资办了一些商店,设立了一些代办点,汇兑业也开始经营,钞票面值发行到五十元,假钞市面上也发现了,这些都要加强工作。二.日本帝国主义的扫荡也频繁了,经常跑敌情。三.因我那儿干部都是本地方人,到晚上都回家住去了,因此一遇敌情不是炊事员就是通信员与我一起打游击。一次炊事员张勤功与我一起跑敌情,走到一个沙漠树林中一听周围都有枪声,张勤功问我说;张主任这周围都有敌人,你看这朝哪走?我说:勤功同志我们两个不要跑了,否则会与敌人碰上的,我看就朝那沙漠里边的小村庄黄河套走去吧,结果我两到了那个小村庄。其实村中也没有人了,周围村庄都枪声,我们两个就不动了,静等敌情变化,下午三点多钟,远近各村都静了下来,说明敌人都回去了。就是说越是情况紧急越要冷静判断,才不会吃亏的。冀南银行第四分行到邢济路南企之县一带活动后,企之县银行就撤消了,金库干部回县财政科,出纳员回家了,通信员、炊事员也都回家了,只有我一个人回到了分行。

  一九四二年八月我到分行后,任出纳股长,就是跟钞票打交道了。当时分行主任是王一农(在总行时的总务科长)政委颜志敏(当时银行属军队系统所以叫政委是军分区派来的)。我在分行工作了近二年,此期间分行领导调几次,即不久王一农主任和颜政委调走了,换上了武任真主任(即总行秘书贾玉甫,化名武任真)张浩天监委,不久武任真主任调走了,换上了王一鸣主任,中层干部就调换的更多了,只有我这干部没有调动。另有一些事也值得一叙:首先是四二年和四三年在冀南这块土地上是天灾加敌灾:日本帝国主义的烧杀俘掠。自然灾害二年没有下雨,赤地千里,人民的生活情况就可想而知了,其次此时即一九四四年的世界战局也说几句,中国抗日战争也打了七年,世界大战已打了五年。欧州战场和亚洲战场盟军都在反攻并提出今年打败德国,明年打败日本,已成定局。全世界人民对德、意、日法西斯的最后一战了,也就是德、意、日法西斯的末日到了,再次一九四四年的四月十五日,是一个教训极深刻的日子,我将永世不忘。天还未亮,我们住的村庄就被日本帝国主义包围了,我们有六个人被抓去,我是其中之一。从此经临清、济南、青岛到日本作苦工,坐牢房、受原子弹之害,直到日本帝国主义投降后才又回到了祖国。这也是我怎样离开冀南银行第四分行和祖国的。

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