2009/09/07

二.少年時代の学校の思い出

 私は、1928年7月、郷里の村の東庄小学校に入学した。
 初めて教えを受けた先生は、張儒楷といった。
 「三字経」と「百家姓」から習い始め、その後「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」、ついには「詩経」(訳注9)までみな習った。
 そのころの勉強は、機械的な丸暗記と暗唱で、早起きして学校へ行き本を暗唱させられた。暗唱できないと罰で立たされるし、朝ご飯を食べに帰してもらえず、暗唱できてようやくご飯を食べに帰してもらえた。先生の生徒に対する指導の厳しさはたいへんなものだった。 

 この時期に「9・18」事件〔*満州事変〕が起き、日本軍国主義が東北地域を侵略する戦争が始まった。
 そこで先生は私たちに歌を一曲教えてくれた。
 「蓬莱山に登れば北に満州を望む。いつの日か命を奉じ、精鋭な軍隊を率いて一戦を交え、祖国の山河を取り戻さん…」。これは国民の叫びであった。
 1932年張先生は家庭の事情で突然辞職され、私たち学童も勉学の機会を失った。
 2年後、また家から2里〔*1㌔〕離れた羅営小学校で学んだ。先生は王維積といった。35年6月王先生は私たち同級生を県都に連れていって、鶏沢県第一完全小学校を受験させた。その結果、私1人が合格した。

 この鶏沢県第一完全小学校は、毎年1組40人しか募集しない県内唯一の学校だった。
 当時この学校を卒業すれば秀才とされ、また教養のある人としても認められた。
 35年7月、私はこの学校に入学した。家から遠いので寮に入るしかなく、このときから私は郷里を離れた。
 学校には国語、数学、政治、歴史、地理、自然、音楽、図画、衛生、古文の10科目があった。
 校長は張笑古先生だった。
 私はこの学枚で2年間学んで卒業したが、その2年の間に内外を震撼させる2つの大事件が起きた。

 その1つは、36年の西安事件で、将介石に内戦を停止させ、人民が一致して抗日にあたることになった。
 2つめは37年7月7日の蘆溝橋事件で、日本軍国主義は中国侵略の全面戦争を開始した。
 つづいて全国的な抗日運動の高まりに火がつき、まさにあの歌にうたっているように、「中華民族は今や最後の関頭に立たされた…」。
 だが、私はそれでもなお同級生たちと邢台へ職業中等専門学校を受験に行き、石家荘鉄路学校に合格した。

 1937年7月、私はいっしょに合格した張振鐸君とともに石家荘鉄路学校に入学した。
 学校は寄宿舎を用意していた。
 学生はさして多くはなく、時局が明らかに不安定なためまだ入学していない者もいた。しかし学校はやはり授業を始めた。
 一般科目のほか外国語はフランス語を学んだ。
 当時平漢線〔*北平―漢口間〕ではフランス語を使っているということだった。
 毎日日本軍の飛行機の爆撃が激しく避難せねばならず、授業は継続が難しくなった。学校はついに授業停止を決め、学生を帰郷させた。以後、時局の推移を待って再開するかどうかを決定するという。
 私たち学生はあわただしく学校と石家荘を離れた。この別れで石家荘に戻れなくなるとは誰知るよしもない。
 私が再び石家荘に戻ったのはその20年後、58年出張の途次のことで、学校を見にしばし立寄ってみたが、学校はもうすでになかった。

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◇ 訳    注 ◇
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9)「三字経」と「百家姓」から習い始め、その後「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」、ついには「詩経」…「三字経」(千字余りを三字句にしたもの)、「百家姓」(諸家の姓氏を四字句で押韻し排列してあるもの)は、「千字文」(四言の古詩、計250句1千字)とともに、初学の子どもの必読書とされ、塾や学校の教科書に用いられた。「四書」(「大学」、「論語」、「孟子」、「中庸」-いずれも儒家の哲学的観点、政治思想、倫理観念を論述)、「五経」(「易経」、「書経」、「詩経」、「礼記」、「春秋左氏伝」-同じく儒家の経典)も、清代末期までの封建時代、主な教材にされていたとあり(『中国大百科事典』)、新中国成立以前はこれが踏襲されていた模様。

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◆ 原   文 ◆
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二.少年时代的学生情况记忆

  我是在一九二八年七月于本村要东庄小学开始读书的。启蒙老师是张儒楷是从读《三字经》、《百家姓》开始,以后上《论语》、《孟子》、《大学》、《中庸》, 甚至《诗经》都读了。那时读书是死读硬背,很早起床到学校背书,背不出罚站,也不能回家吃早饭,什么时候能背出了才准回家吃饭。可见老师对学生管理之严,此期间还发生了“九·一八”事变即日本军国主义侵略东北的战争。所以老师教了我们一首歌:“登蓬莱北望满州、何日奉命提锐旅一战恢复旧山河...。这是全国人民的声音。一九三二年张老师因家庭关系突然辞职了,我们这些学生也失学了,二年后又在离家二里远的罗营小学读,老师是王维积,三五年的六月王老师带我们一些同学去县城考鸡泽县第一完全小学校,结果只有我一个人录取了。

  这个鸡泽县的第一完全小学校,全县只有这么一所,每年只招收一班四十人,在当时如果能在该校毕业就算秀才了,也就是算有文化的人了。三五年七月我就到该校报到了。因离家远只能住宿,从此我就算离开家了。学校共开十门课:语文、数学、政治、历史、地理、自然、音乐、图画、卫生和古文。校长是张笑古,我在该校读书二年就毕业了,但在二年内发生二件震惊中外的大事;一是三六年的西安事变,叫蒋介石停止内战一致抗日,二是三七年“七·七”芦沟桥事件,日本军国主义发动侵略中国的全面战争。燃起了全国的抗日高潮,正像那首歌所唱的:中华民族已到最后关头..。但我还是与一些同学去邢台考职业中专去了,我考取了石家庄铁路学校。

  一九三七年七月与我一同考取石家庄铁路学校的张振铎同学一同去石家庄铁路学校报到,报到后学校安排了住宿。学生并不多,显然因时局不稳,有些同学没来, 但学校还是开课了。除其它课,外语是学的法语,据说当时平汉铁路上是用的法语。每天都有日军飞机轰炸防空,课很难上得成。学校终于决定停课让学生回家了,说以后待时局而定。我们这些学生就急忙离开学校和石家庄了,谁知这一走就也没有回石家庄。再回石家庄是二十年后,五八年出差路过,在那里停了一下,去看学校已经不存在了。

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