2009/09/08

一.幼年時代の思い出

 私は初めて大人について畑に綿花を摘みに行った。
 私たちの家では、子どもたちが畑に出て綿を摘むと、祖父母が労働の報酬をくれるのだった。
 私がはっきりと覚えているのは、綿花を1斤〔*約500㌘〕摘むごとに1枚の銅貨がもらえたことだ。
 午前中いっぱい摘んで家に帰ると、おばあさんが秤ではかってくれて言った。
 「雪成〔*文彬さんの幼名〕は3斤以上摘んだね。ごほうびを入れて銅貨を4つあげようね」。私はうれしくて跳びあがった。
 その時代、1枚の銅貨で落花生1両〔*約50㌘〕か飴玉が2粒買えた。お金があれば物を買って食べられると喜んだのだった。

 村の東のはずれに、わが家の畑が2畝〔*約13㌃〕あった。
 麦か高梁を一毛作作れるだけの畑だった。
 作物がもうすぐ収穫できるころ、祖母が、「諾成(私の従兄)に雪成や、うしろの畑を見張ってきておくれ」と言った。
 見張りに行かないと、鶏や鴨、雀や鳩が群がって作物を全部食い尽くしてしまい、取り入れできなくなるからだった。
 私たち2人がまだ小学校にあがる前、畑の見張り番が収穫どきのきまった任務になっていた。

 私の遠縁におじがいた。
 彼は兄弟の序列が5番目だったので、私たちは五叔父と呼んでいた。
 彼は中国の南方で兵隊をしていて、ある年帰郷した。人々はそろって彼に会いに行った。私たち小さな子どもも連れ立って出かけた。
 私が「五おじさん」と呼びかけると、彼は赤い果実をくれたので、私は喜んですぐ口に頬張った。
 五叔父はあわてて私を制止して言った。「坊や、これは蜜柑というもので、皮をむいてから食べるのだ」。これも私が初めて目にし、初めて食べた蜜柑で、実に珍しいものだった。
 それから、軍隊とはいかなるものか、朱徳、毛沢東とともに紅軍(訳注7)がいかに戦うかの話を、彼に聞かされたのだ。
 これもまた、朱徳、毛沢東、紅軍などの名詞と物語を聞かされた初めてのことだった。

 幼児期にもっとも多く聞いたのは、軍閥(訳注8)混戦の様子だ。
 馮玉祥、張作霖、呉佩莩、閻錫山、のちの国民革命軍などの名前はいまなお記憶になまなましい。
 連年内戦は止まず、そのうえ外患が加わり、全国の人民は国家を憂えた。

 私にとって忘れられないのは、下痢をわずらい長い間治らず困ったことだ。当時飲む薬は何もないし、農村にはかかる医者もいなかった。
 どうにもしようがないから、母は民間伝承のやり方で、煉瓦を熱くねっし、私をその上に座らせた。これが意外にもよく効き数日して治癒した。

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◇ 訳    注 ◇
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7)紅軍…国民党による反共クーデターに触発され、共産党中央が独自の軍隊創設の必要性を感じ、1927年8月1日約3万の兵士を集めて蜂起、湖南省で農民蜂起を指導していた毛沢東も労働者農民の革命軍を編成、この2つが湖南・江西両省の省境・井岡山で合流し、紅軍(当時、朱徳軍長、労農赤軍第四軍とも、のち中国人民抗日紅軍)が建設された。34-36年の長征を経て、37年7月盧溝橋事件発生、国共合作成立時、国民革命軍第八路軍(朱徳総指揮)、新四軍(長征残留遊撃隊が主体。葉挺軍長)に改編される。46年内戦勃発により、翌年3月人民解放軍と改称した。毛沢東は28年4月より党代表。

8)軍閥…帝国主義諸国の支援を受けて自己の傭兵を基盤として、特定の地域に政治的・軍事的権力支配機構を樹立した軍人の一団。太平天国の乱による清朝の軍事機構の破綻に起源が求められ、日清戦争・義和団の乱以降、勢力を増強し、長期にわたって「混戦」、「割拠」を繰り返すが、1926-28年の国民革命軍の北伐(第1次国内革命戦争)、35年の幣制改革によって弱体化する。その間、北伐ののち出現した「新軍閥」は、27年10月、蒋介石・李宗仁(南京派)と汪精衛・唐生智(武漢派)との間に戦争、同11月、張発奎(広東省)と黄紹閎(広西省)との粤桂戦争、29年3-4月、蒋介石と馮玉祥(安徽省)との蒋馮戦争、30年4月、半年に及んだ中原(黄河中・下流域)大戦、と各地で大規模な戦闘をくり広げ、大衆を不安に陥れた。

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◆ 原   文 ◆
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一.童年时代的杂记

  我第一次跟着大人去地里摘棉花,因为在我们那个家庭孙子女下地摘棉祖父母是要给劳动报酬的。我记得很清楚,每摘一斤给一个铜板,摘了一上午回来奶奶一过秤说,雪成摘了三斤多,加上奖励给四个铜板吧。我喜欢得跳了起来。那个时代一个铜板可买一两花生或三粒糖球,喜的是有钱买东西吃了。

  本村东头有我们家两亩地只能种一季麦子或者高粱。庄稼快熟的时候祖母说;诺成(我的叔伯老兄)雪成去看后边地,因为不看, 鸡鸭成群,麻雀鸽子成群,给你都吃光而没有收成了。在我们兄弟两个未读书前看庄稼成了一项到时的固定任务。

  我有一个远房叔叔,他在他们兄弟中排行第五,所以我们都叫他五叔。他在中国南方当兵,有一年他回家来了,人们都去看他,我们这些小孩子也去凑热闹。我叫了一声五叔,他就给一个红果子,我高兴的就往嘴里塞,五叔忙制止了我说:孩子,这叫桔子要剥去皮才能吃的,这也是我第一次看到和吃到桔子,真新奇呀!随后就听他讲当兵如何,如何与朱毛红军打仗的故事。这也是第一次听到朱德、毛泽东、红军等这些名词和故事。

  童年时代听到最多的是军阀混战情况:冯玉祥、张作霖、吴佩莩、阎锡山以及后来的国民革命军这些人的名子我现在记忆犹新。连年内战不停,再加上外患使全国人民对国家担忧。

 使我记忆很深的是患了痢疾,久治不愈。因为当时没有什么药吃,农村也没有什么医生看病。在没有办法的情况下,母亲就用民间土办法。把一块砖烧热,叫我坐在上边这样搞了几天居然好了。

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