2009/09/09


はじめに

 人の一生は、幼児期、少年期、青年期、壮年期、老年期、晩年期などいくつかの段階を経るものである。
 しかし、生きた時代や社会、家庭の違いによって千差万別といえよう。

 私は、中国の歴史上多事多難な時代に生まれた。
 外からの侵略と内戦が絶え間なくつづいた。
 私が就学して先生から最初に教わった歌は、「蓬莱(訳注1)に登れば、北に満州を望む」というものだった。
 1931年9月18日、日本軍国主義は東北地域を不法に占拠し(訳注2)、全国人民の抗日統一戦線を要求するうねりが高まっていった。
 西安事件(訳注3)が起こり、張学良、楊虎城の2人の将軍が将介石を押さえつけて内戦を停止させ、ついに抗日統一戦線が実現したのだった。これが1936年のことだ。
 1937年、私はやっと小学校を卒業し、石家荘鉄路学校の入学試験に合格した。入学してから勉学するいとまもなく、7月7日盧溝橋事件(訳注4)が起き、日本軍国主義が全面的に中国を侵略する銃声が鳴りわたった。これにより授業どころではなくなり、中国全土に抗日戦争が始まった。

 私は、青年時代に、この偉大な国家防衛戦争と世界の反ファシズム戦争に参加することになった。
 第二次世界大戦は、日本軍国主義が中国の東北に侵略した1931年9月18日から始まったといってもいいだろう。すぐつづいて、イタリア・ファシズムがアビシニア、現在のエチオピアを侵略し、ドイツ・ファシズムがチェコを占領した。
 この戦争が始まって間もなく、独・伊ファシズムは、英国とソ連以外の欧州諸国を占領し、日本軍国主義者もまた多くのアジア諸国を占領して、東西相呼応する枢軸国(訳注5)を形成した。
 同時に、ファシズムの侵略に対抗する国々も連合国を構成した。
 第二次大戦は、1944年になると、独・伊・日ファシズムの敗北が決定的な局面を迎え、イタリアは投降し、独、日も相次いで負けた。
 だから、連合国は、「今年はドイツを打ち負かし、来年は日本を打ち負かす」とスローガンを掲げた。のちに第二次大戦の勝利終結が見事にこれを証明した。

 1944年4月、私は日本軍国主義者に捕えられ、日本へと強制連行され強制労働をさせられた。
 そして広島の監獄に監禁され、そこで原子爆弾の襲撃を受けた。
 45年日本が降伏してから祖国に戻った。
 直ちに解放戦争に参加し、遼瀋、准海、平津の三大戦役(訳注6)ののち間もなく、1949年中国全土は解放され、10月1日新中国の誕生が宣言された。

 1949年2月、私は人民解放軍に従軍し、目的地を湖南省に南下した。
 そのときすでに而立の年令〔*30歳〕を過ぎようとしていた。まさに青年時代を終えて、壮年時代に入っていたというわけだ。
 中国湖南省の各地、各戦線で仕事をし、湖南の山河をあまねく歩きまわった。新中国が今日あるのは、全国の人民が、私も含めて、犠牲を惜しまず奮闘した結果だ。

 私は、1979年5月退任し、奮闘数十年の職場を離れた。夕日の紅い光のような晩年を安らかに過ごしている。

---------------------------------
◇ 訳    注 ◇
----------------------------------

1)蓬莱…①山東省北端にあり、渤海湾に臨む蓬莱県、渤海に入る海峡をおさえる要衝地で商業が盛んだった。蜃気楼が現れる町。②伝説では、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。そこには、蓬莱閣があり、秦の始皇帝が登ったといわれている。次章に、「蓬莱山」とあるから、②で「中国」をシンボライズしたものと思われる。

2)日本軍国主義は東北地域を不法に占拠し…「満州事変」のこと。関東軍(「満州」に駐屯する日本軍)は、奉天(現在の瀋陽)近郊・柳条湖で南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し、これを中国兵のしわざであるとして、中国軍(張学良軍)に対する軍事行動を開始。翌32年初頭までに「満州」全土をほぼ制圧し、上海にも日本人保護を理由に派兵して、同年3月には、「満州国」を建国。日中15戦争の第1段階とされる重大事件。

3)西安事件…満州事変をきっかけに、民間の抗日運動が全国的に激しくなり、1935年8月1日、中国共産党は民族統一戦線結成を呼びかけた。1936年、「満州」を追われて西安にいた張学良(行動をともにした楊虎城は、西安付近の軍隊の指揮官)はこうした状況に動かされ、12月、南京から共産党軍攻撃作戦を督励に来た蒋介石を監禁し、逆に抗日・内戦停止を説いた。国共合作(第2次)による抗日民族統一戦線結成の契機となった。

4)盧溝橋事件…北京の南郊、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習をしていた北支派遣軍の1部隊が、翼察政務委員会(河北・察哈爾両省を治めた日本軍傀儡の「自治政府」)・宋哲元軍から銃撃を受けたとして、直ちに応戦し中国軍を圧迫しながら、早暁停戦交渉に入った。だが、近衛文麿首相の誤った判断から華北侵略派兵閣議決定が下され、これが中国側を刺激し、蒋介石の「生死関頭」演説がおこなわれ、抗日態勢が強化された。日中全面戦争の発端になったとされる事件。

5)枢軸国…連合国(反ファシズム連合)に対立し、日本・ドイツ・イタリア三国同盟の側に属した諸国。1936年10月のベルリン・ローマ枢軸の呼称に由来する。

6)遼瀋、准海、平津の三大戦役…1945-49年、共産党に指導された人民解放軍は国民大衆を動員し、「第3次国内革命戦争」と称して、日本軍の武器、米国の支援を得た国民党政府の統治を覆す「解放戦争」を戦った。なかでも「遼瀋」(遼寧省瀋陽・長春地域。1948.9-11、東北全域を解放し、つづく内戦勝利の基礎をつくる)、「平津」(北平=北京・天津・張家口地域。1948.11-49.1、華北地方を基本的に解放)、「淮海」(徐州を中心に江蘇・山東・河南・安徽4省にまたがる広大な地域。1948.11-49.1、揚子江以北の華中・中原地域を解放し南京・上海を威嚇した)の三大会戦や「渡江」(揚子江流域・近隣の大都市。1949.4-6、南京・上海を解放し南方の各省解放の有利な条件をつくる)会戦は、激戦・勝利が語り継がれている。こうした「南征」に従軍した共産党員は、100万人に達するといわれる。

================
◆ 原   文 ◆
================

前    言

  人的一生都要经过这样几个阶段:幼儿、童年、少年、青年、中年、老年和晚年。但因所处的时代、社会和家庭的不同而千差万别。

  我生在中国历史上多灾多难的年代。外来侵略和内战连年不断。我读书了,老师教的第一首歌是:“登蓬莱北望满州”,即一九三一年的‘九·一八’日本军国主义侵占东北,形成了全国人民要求一致抗日的高潮。因此才有西安事变,张学良、杨虎城两将军扣压蒋介石叫他停止内战,一致抗日终于实现。这是一九三六年的事。一九三七年我小学才毕业,考上了石家庄铁路学校,报到后还没读什么书,“七·七”芦沟桥日本军国主义全面侵略中国的枪声就打响了。因此书也读不成了,全国抗日战争就开始了。

  我以一个青年时代参加了这一伟大的卫国战争和世界的反法西斯战争。第二次世界大战也可说是从日本军国主义侵略中国东北,一九三一年九月十八日开始的,紧跟着意大利法西斯侵占阿比西尼亚即现在的埃塞俄比亚,德国法西斯侵占了捷克。这场战争开始不久,德意法西斯占领了除英国、苏联外的所有欧洲国家,日本军国主义也占领了很多亚洲国家,形成他们东西呼应的轴心国。同时也形成了抗击法西斯侵略的同盟国。第二次大战进行到一九四四年德意日法西斯失败已成定局:意大利已投降,德日已节节失败。所以,同盟国提示:今年打败德国明年打败日本的口号,后来第二次大战结局证明是不错的。

  一九四四年四月,我被日本军国主义抓到日本作苦工后被关在日本广岛监狱,被受到了原子弹的袭击。四五年日本投降后回到了祖国。同时就参加了解放战争、辽沈、淮海、平津三大战役后不久的一九四九年全国解放了,十月一日宣告了新中国的诞生。

  一九四九年二月我随军南下目的地湖南。当时已过而立之年了。也就是青年时代已过进入中年时代。在中国湖南省很多地方,各条战线都工作过,走遍了湖南的山山水水。新中国有今天是全国人民也包括我在内不惜牺牲奋斗的结果。

  一九七九年的五月我离休了,我离开了奋斗几十年的工作岗位,安度晚年了,晚年一片夕阳红。

0 件のコメント: