2009/09/09


はじめに

 人の一生は、幼児期、少年期、青年期、壮年期、老年期、晩年期などいくつかの段階を経るものである。
 しかし、生きた時代や社会、家庭の違いによって千差万別といえよう。

 私は、中国の歴史上多事多難な時代に生まれた。
 外からの侵略と内戦が絶え間なくつづいた。
 私が就学して先生から最初に教わった歌は、「蓬莱(訳注1)に登れば、北に満州を望む」というものだった。
 1931年9月18日、日本軍国主義は東北地域を不法に占拠し(訳注2)、全国人民の抗日統一戦線を要求するうねりが高まっていった。
 西安事件(訳注3)が起こり、張学良、楊虎城の2人の将軍が将介石を押さえつけて内戦を停止させ、ついに抗日統一戦線が実現したのだった。これが1936年のことだ。
 1937年、私はやっと小学校を卒業し、石家荘鉄路学校の入学試験に合格した。入学してから勉学するいとまもなく、7月7日盧溝橋事件(訳注4)が起き、日本軍国主義が全面的に中国を侵略する銃声が鳴りわたった。これにより授業どころではなくなり、中国全土に抗日戦争が始まった。

 私は、青年時代に、この偉大な国家防衛戦争と世界の反ファシズム戦争に参加することになった。
 第二次世界大戦は、日本軍国主義が中国の東北に侵略した1931年9月18日から始まったといってもいいだろう。すぐつづいて、イタリア・ファシズムがアビシニア、現在のエチオピアを侵略し、ドイツ・ファシズムがチェコを占領した。
 この戦争が始まって間もなく、独・伊ファシズムは、英国とソ連以外の欧州諸国を占領し、日本軍国主義者もまた多くのアジア諸国を占領して、東西相呼応する枢軸国(訳注5)を形成した。
 同時に、ファシズムの侵略に対抗する国々も連合国を構成した。
 第二次大戦は、1944年になると、独・伊・日ファシズムの敗北が決定的な局面を迎え、イタリアは投降し、独、日も相次いで負けた。
 だから、連合国は、「今年はドイツを打ち負かし、来年は日本を打ち負かす」とスローガンを掲げた。のちに第二次大戦の勝利終結が見事にこれを証明した。

 1944年4月、私は日本軍国主義者に捕えられ、日本へと強制連行され強制労働をさせられた。
 そして広島の監獄に監禁され、そこで原子爆弾の襲撃を受けた。
 45年日本が降伏してから祖国に戻った。
 直ちに解放戦争に参加し、遼瀋、准海、平津の三大戦役(訳注6)ののち間もなく、1949年中国全土は解放され、10月1日新中国の誕生が宣言された。

 1949年2月、私は人民解放軍に従軍し、目的地を湖南省に南下した。
 そのときすでに而立の年令〔*30歳〕を過ぎようとしていた。まさに青年時代を終えて、壮年時代に入っていたというわけだ。
 中国湖南省の各地、各戦線で仕事をし、湖南の山河をあまねく歩きまわった。新中国が今日あるのは、全国の人民が、私も含めて、犠牲を惜しまず奮闘した結果だ。

 私は、1979年5月退任し、奮闘数十年の職場を離れた。夕日の紅い光のような晩年を安らかに過ごしている。

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◇ 訳    注 ◇
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1)蓬莱…①山東省北端にあり、渤海湾に臨む蓬莱県、渤海に入る海峡をおさえる要衝地で商業が盛んだった。蜃気楼が現れる町。②伝説では、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。そこには、蓬莱閣があり、秦の始皇帝が登ったといわれている。次章に、「蓬莱山」とあるから、②で「中国」をシンボライズしたものと思われる。

2)日本軍国主義は東北地域を不法に占拠し…「満州事変」のこと。関東軍(「満州」に駐屯する日本軍)は、奉天(現在の瀋陽)近郊・柳条湖で南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し、これを中国兵のしわざであるとして、中国軍(張学良軍)に対する軍事行動を開始。翌32年初頭までに「満州」全土をほぼ制圧し、上海にも日本人保護を理由に派兵して、同年3月には、「満州国」を建国。日中15戦争の第1段階とされる重大事件。

3)西安事件…満州事変をきっかけに、民間の抗日運動が全国的に激しくなり、1935年8月1日、中国共産党は民族統一戦線結成を呼びかけた。1936年、「満州」を追われて西安にいた張学良(行動をともにした楊虎城は、西安付近の軍隊の指揮官)はこうした状況に動かされ、12月、南京から共産党軍攻撃作戦を督励に来た蒋介石を監禁し、逆に抗日・内戦停止を説いた。国共合作(第2次)による抗日民族統一戦線結成の契機となった。

4)盧溝橋事件…北京の南郊、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習をしていた北支派遣軍の1部隊が、翼察政務委員会(河北・察哈爾両省を治めた日本軍傀儡の「自治政府」)・宋哲元軍から銃撃を受けたとして、直ちに応戦し中国軍を圧迫しながら、早暁停戦交渉に入った。だが、近衛文麿首相の誤った判断から華北侵略派兵閣議決定が下され、これが中国側を刺激し、蒋介石の「生死関頭」演説がおこなわれ、抗日態勢が強化された。日中全面戦争の発端になったとされる事件。

5)枢軸国…連合国(反ファシズム連合)に対立し、日本・ドイツ・イタリア三国同盟の側に属した諸国。1936年10月のベルリン・ローマ枢軸の呼称に由来する。

6)遼瀋、准海、平津の三大戦役…1945-49年、共産党に指導された人民解放軍は国民大衆を動員し、「第3次国内革命戦争」と称して、日本軍の武器、米国の支援を得た国民党政府の統治を覆す「解放戦争」を戦った。なかでも「遼瀋」(遼寧省瀋陽・長春地域。1948.9-11、東北全域を解放し、つづく内戦勝利の基礎をつくる)、「平津」(北平=北京・天津・張家口地域。1948.11-49.1、華北地方を基本的に解放)、「淮海」(徐州を中心に江蘇・山東・河南・安徽4省にまたがる広大な地域。1948.11-49.1、揚子江以北の華中・中原地域を解放し南京・上海を威嚇した)の三大会戦や「渡江」(揚子江流域・近隣の大都市。1949.4-6、南京・上海を解放し南方の各省解放の有利な条件をつくる)会戦は、激戦・勝利が語り継がれている。こうした「南征」に従軍した共産党員は、100万人に達するといわれる。

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◆ 原   文 ◆
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前    言

  人的一生都要经过这样几个阶段:幼儿、童年、少年、青年、中年、老年和晚年。但因所处的时代、社会和家庭的不同而千差万别。

  我生在中国历史上多灾多难的年代。外来侵略和内战连年不断。我读书了,老师教的第一首歌是:“登蓬莱北望满州”,即一九三一年的‘九·一八’日本军国主义侵占东北,形成了全国人民要求一致抗日的高潮。因此才有西安事变,张学良、杨虎城两将军扣压蒋介石叫他停止内战,一致抗日终于实现。这是一九三六年的事。一九三七年我小学才毕业,考上了石家庄铁路学校,报到后还没读什么书,“七·七”芦沟桥日本军国主义全面侵略中国的枪声就打响了。因此书也读不成了,全国抗日战争就开始了。

  我以一个青年时代参加了这一伟大的卫国战争和世界的反法西斯战争。第二次世界大战也可说是从日本军国主义侵略中国东北,一九三一年九月十八日开始的,紧跟着意大利法西斯侵占阿比西尼亚即现在的埃塞俄比亚,德国法西斯侵占了捷克。这场战争开始不久,德意法西斯占领了除英国、苏联外的所有欧洲国家,日本军国主义也占领了很多亚洲国家,形成他们东西呼应的轴心国。同时也形成了抗击法西斯侵略的同盟国。第二次大战进行到一九四四年德意日法西斯失败已成定局:意大利已投降,德日已节节失败。所以,同盟国提示:今年打败德国明年打败日本的口号,后来第二次大战结局证明是不错的。

  一九四四年四月,我被日本军国主义抓到日本作苦工后被关在日本广岛监狱,被受到了原子弹的袭击。四五年日本投降后回到了祖国。同时就参加了解放战争、辽沈、淮海、平津三大战役后不久的一九四九年全国解放了,十月一日宣告了新中国的诞生。

  一九四九年二月我随军南下目的地湖南。当时已过而立之年了。也就是青年时代已过进入中年时代。在中国湖南省很多地方,各条战线都工作过,走遍了湖南的山山水水。新中国有今天是全国人民也包括我在内不惜牺牲奋斗的结果。

  一九七九年的五月我离休了,我离开了奋斗几十年的工作岗位,安度晚年了,晚年一片夕阳红。

2009/09/08

一.幼年時代の思い出

 私は初めて大人について畑に綿花を摘みに行った。
 私たちの家では、子どもたちが畑に出て綿を摘むと、祖父母が労働の報酬をくれるのだった。
 私がはっきりと覚えているのは、綿花を1斤〔*約500㌘〕摘むごとに1枚の銅貨がもらえたことだ。
 午前中いっぱい摘んで家に帰ると、おばあさんが秤ではかってくれて言った。
 「雪成〔*文彬さんの幼名〕は3斤以上摘んだね。ごほうびを入れて銅貨を4つあげようね」。私はうれしくて跳びあがった。
 その時代、1枚の銅貨で落花生1両〔*約50㌘〕か飴玉が2粒買えた。お金があれば物を買って食べられると喜んだのだった。

 村の東のはずれに、わが家の畑が2畝〔*約13㌃〕あった。
 麦か高梁を一毛作作れるだけの畑だった。
 作物がもうすぐ収穫できるころ、祖母が、「諾成(私の従兄)に雪成や、うしろの畑を見張ってきておくれ」と言った。
 見張りに行かないと、鶏や鴨、雀や鳩が群がって作物を全部食い尽くしてしまい、取り入れできなくなるからだった。
 私たち2人がまだ小学校にあがる前、畑の見張り番が収穫どきのきまった任務になっていた。

 私の遠縁におじがいた。
 彼は兄弟の序列が5番目だったので、私たちは五叔父と呼んでいた。
 彼は中国の南方で兵隊をしていて、ある年帰郷した。人々はそろって彼に会いに行った。私たち小さな子どもも連れ立って出かけた。
 私が「五おじさん」と呼びかけると、彼は赤い果実をくれたので、私は喜んですぐ口に頬張った。
 五叔父はあわてて私を制止して言った。「坊や、これは蜜柑というもので、皮をむいてから食べるのだ」。これも私が初めて目にし、初めて食べた蜜柑で、実に珍しいものだった。
 それから、軍隊とはいかなるものか、朱徳、毛沢東とともに紅軍(訳注7)がいかに戦うかの話を、彼に聞かされたのだ。
 これもまた、朱徳、毛沢東、紅軍などの名詞と物語を聞かされた初めてのことだった。

 幼児期にもっとも多く聞いたのは、軍閥(訳注8)混戦の様子だ。
 馮玉祥、張作霖、呉佩莩、閻錫山、のちの国民革命軍などの名前はいまなお記憶になまなましい。
 連年内戦は止まず、そのうえ外患が加わり、全国の人民は国家を憂えた。

 私にとって忘れられないのは、下痢をわずらい長い間治らず困ったことだ。当時飲む薬は何もないし、農村にはかかる医者もいなかった。
 どうにもしようがないから、母は民間伝承のやり方で、煉瓦を熱くねっし、私をその上に座らせた。これが意外にもよく効き数日して治癒した。

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◇ 訳    注 ◇
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7)紅軍…国民党による反共クーデターに触発され、共産党中央が独自の軍隊創設の必要性を感じ、1927年8月1日約3万の兵士を集めて蜂起、湖南省で農民蜂起を指導していた毛沢東も労働者農民の革命軍を編成、この2つが湖南・江西両省の省境・井岡山で合流し、紅軍(当時、朱徳軍長、労農赤軍第四軍とも、のち中国人民抗日紅軍)が建設された。34-36年の長征を経て、37年7月盧溝橋事件発生、国共合作成立時、国民革命軍第八路軍(朱徳総指揮)、新四軍(長征残留遊撃隊が主体。葉挺軍長)に改編される。46年内戦勃発により、翌年3月人民解放軍と改称した。毛沢東は28年4月より党代表。

8)軍閥…帝国主義諸国の支援を受けて自己の傭兵を基盤として、特定の地域に政治的・軍事的権力支配機構を樹立した軍人の一団。太平天国の乱による清朝の軍事機構の破綻に起源が求められ、日清戦争・義和団の乱以降、勢力を増強し、長期にわたって「混戦」、「割拠」を繰り返すが、1926-28年の国民革命軍の北伐(第1次国内革命戦争)、35年の幣制改革によって弱体化する。その間、北伐ののち出現した「新軍閥」は、27年10月、蒋介石・李宗仁(南京派)と汪精衛・唐生智(武漢派)との間に戦争、同11月、張発奎(広東省)と黄紹閎(広西省)との粤桂戦争、29年3-4月、蒋介石と馮玉祥(安徽省)との蒋馮戦争、30年4月、半年に及んだ中原(黄河中・下流域)大戦、と各地で大規模な戦闘をくり広げ、大衆を不安に陥れた。

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◆ 原   文 ◆
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一.童年时代的杂记

  我第一次跟着大人去地里摘棉花,因为在我们那个家庭孙子女下地摘棉祖父母是要给劳动报酬的。我记得很清楚,每摘一斤给一个铜板,摘了一上午回来奶奶一过秤说,雪成摘了三斤多,加上奖励给四个铜板吧。我喜欢得跳了起来。那个时代一个铜板可买一两花生或三粒糖球,喜的是有钱买东西吃了。

  本村东头有我们家两亩地只能种一季麦子或者高粱。庄稼快熟的时候祖母说;诺成(我的叔伯老兄)雪成去看后边地,因为不看, 鸡鸭成群,麻雀鸽子成群,给你都吃光而没有收成了。在我们兄弟两个未读书前看庄稼成了一项到时的固定任务。

  我有一个远房叔叔,他在他们兄弟中排行第五,所以我们都叫他五叔。他在中国南方当兵,有一年他回家来了,人们都去看他,我们这些小孩子也去凑热闹。我叫了一声五叔,他就给一个红果子,我高兴的就往嘴里塞,五叔忙制止了我说:孩子,这叫桔子要剥去皮才能吃的,这也是我第一次看到和吃到桔子,真新奇呀!随后就听他讲当兵如何,如何与朱毛红军打仗的故事。这也是第一次听到朱德、毛泽东、红军等这些名词和故事。

  童年时代听到最多的是军阀混战情况:冯玉祥、张作霖、吴佩莩、阎锡山以及后来的国民革命军这些人的名子我现在记忆犹新。连年内战不停,再加上外患使全国人民对国家担忧。

 使我记忆很深的是患了痢疾,久治不愈。因为当时没有什么药吃,农村也没有什么医生看病。在没有办法的情况下,母亲就用民间土办法。把一块砖烧热,叫我坐在上边这样搞了几天居然好了。

2009/09/07

二.少年時代の学校の思い出

 私は、1928年7月、郷里の村の東庄小学校に入学した。
 初めて教えを受けた先生は、張儒楷といった。
 「三字経」と「百家姓」から習い始め、その後「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」、ついには「詩経」(訳注9)までみな習った。
 そのころの勉強は、機械的な丸暗記と暗唱で、早起きして学校へ行き本を暗唱させられた。暗唱できないと罰で立たされるし、朝ご飯を食べに帰してもらえず、暗唱できてようやくご飯を食べに帰してもらえた。先生の生徒に対する指導の厳しさはたいへんなものだった。 

 この時期に「9・18」事件〔*満州事変〕が起き、日本軍国主義が東北地域を侵略する戦争が始まった。
 そこで先生は私たちに歌を一曲教えてくれた。
 「蓬莱山に登れば北に満州を望む。いつの日か命を奉じ、精鋭な軍隊を率いて一戦を交え、祖国の山河を取り戻さん…」。これは国民の叫びであった。
 1932年張先生は家庭の事情で突然辞職され、私たち学童も勉学の機会を失った。
 2年後、また家から2里〔*1㌔〕離れた羅営小学校で学んだ。先生は王維積といった。35年6月王先生は私たち同級生を県都に連れていって、鶏沢県第一完全小学校を受験させた。その結果、私1人が合格した。

 この鶏沢県第一完全小学校は、毎年1組40人しか募集しない県内唯一の学校だった。
 当時この学校を卒業すれば秀才とされ、また教養のある人としても認められた。
 35年7月、私はこの学校に入学した。家から遠いので寮に入るしかなく、このときから私は郷里を離れた。
 学校には国語、数学、政治、歴史、地理、自然、音楽、図画、衛生、古文の10科目があった。
 校長は張笑古先生だった。
 私はこの学枚で2年間学んで卒業したが、その2年の間に内外を震撼させる2つの大事件が起きた。

 その1つは、36年の西安事件で、将介石に内戦を停止させ、人民が一致して抗日にあたることになった。
 2つめは37年7月7日の蘆溝橋事件で、日本軍国主義は中国侵略の全面戦争を開始した。
 つづいて全国的な抗日運動の高まりに火がつき、まさにあの歌にうたっているように、「中華民族は今や最後の関頭に立たされた…」。
 だが、私はそれでもなお同級生たちと邢台へ職業中等専門学校を受験に行き、石家荘鉄路学校に合格した。

 1937年7月、私はいっしょに合格した張振鐸君とともに石家荘鉄路学校に入学した。
 学校は寄宿舎を用意していた。
 学生はさして多くはなく、時局が明らかに不安定なためまだ入学していない者もいた。しかし学校はやはり授業を始めた。
 一般科目のほか外国語はフランス語を学んだ。
 当時平漢線〔*北平―漢口間〕ではフランス語を使っているということだった。
 毎日日本軍の飛行機の爆撃が激しく避難せねばならず、授業は継続が難しくなった。学校はついに授業停止を決め、学生を帰郷させた。以後、時局の推移を待って再開するかどうかを決定するという。
 私たち学生はあわただしく学校と石家荘を離れた。この別れで石家荘に戻れなくなるとは誰知るよしもない。
 私が再び石家荘に戻ったのはその20年後、58年出張の途次のことで、学校を見にしばし立寄ってみたが、学校はもうすでになかった。

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◇ 訳    注 ◇
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9)「三字経」と「百家姓」から習い始め、その後「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」、ついには「詩経」…「三字経」(千字余りを三字句にしたもの)、「百家姓」(諸家の姓氏を四字句で押韻し排列してあるもの)は、「千字文」(四言の古詩、計250句1千字)とともに、初学の子どもの必読書とされ、塾や学校の教科書に用いられた。「四書」(「大学」、「論語」、「孟子」、「中庸」-いずれも儒家の哲学的観点、政治思想、倫理観念を論述)、「五経」(「易経」、「書経」、「詩経」、「礼記」、「春秋左氏伝」-同じく儒家の経典)も、清代末期までの封建時代、主な教材にされていたとあり(『中国大百科事典』)、新中国成立以前はこれが踏襲されていた模様。

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◆ 原   文 ◆
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二.少年时代的学生情况记忆

  我是在一九二八年七月于本村要东庄小学开始读书的。启蒙老师是张儒楷是从读《三字经》、《百家姓》开始,以后上《论语》、《孟子》、《大学》、《中庸》, 甚至《诗经》都读了。那时读书是死读硬背,很早起床到学校背书,背不出罚站,也不能回家吃早饭,什么时候能背出了才准回家吃饭。可见老师对学生管理之严,此期间还发生了“九·一八”事变即日本军国主义侵略东北的战争。所以老师教了我们一首歌:“登蓬莱北望满州、何日奉命提锐旅一战恢复旧山河...。这是全国人民的声音。一九三二年张老师因家庭关系突然辞职了,我们这些学生也失学了,二年后又在离家二里远的罗营小学读,老师是王维积,三五年的六月王老师带我们一些同学去县城考鸡泽县第一完全小学校,结果只有我一个人录取了。

  这个鸡泽县的第一完全小学校,全县只有这么一所,每年只招收一班四十人,在当时如果能在该校毕业就算秀才了,也就是算有文化的人了。三五年七月我就到该校报到了。因离家远只能住宿,从此我就算离开家了。学校共开十门课:语文、数学、政治、历史、地理、自然、音乐、图画、卫生和古文。校长是张笑古,我在该校读书二年就毕业了,但在二年内发生二件震惊中外的大事;一是三六年的西安事变,叫蒋介石停止内战一致抗日,二是三七年“七·七”芦沟桥事件,日本军国主义发动侵略中国的全面战争。燃起了全国的抗日高潮,正像那首歌所唱的:中华民族已到最后关头..。但我还是与一些同学去邢台考职业中专去了,我考取了石家庄铁路学校。

  一九三七年七月与我一同考取石家庄铁路学校的张振铎同学一同去石家庄铁路学校报到,报到后学校安排了住宿。学生并不多,显然因时局不稳,有些同学没来, 但学校还是开课了。除其它课,外语是学的法语,据说当时平汉铁路上是用的法语。每天都有日军飞机轰炸防空,课很难上得成。学校终于决定停课让学生回家了,说以后待时局而定。我们这些学生就急忙离开学校和石家庄了,谁知这一走就也没有回石家庄。再回石家庄是二十年后,五八年出差路过,在那里停了一下,去看学校已经不存在了。

2009/09/06

三.青年時代革命事業に参加した思い出

 私と張振鐸君は1937年8月石家荘鉄路学校を出発した。永年搭連鎮まで汽車に乗って行き、下車してから鶏澤県に向かって歩いた。県都に着いてみると大通りはごったがえしていた。私たち2人は母校に直行した。戦争の影響で学枚も授業を停止していたが、先生だけはまだ残っていた。私たちは先生に状況を報告してからそれぞれ自分の家に帰った。

 1937年の秋、日本軍の飛行機は河北省南部の各県庁所在地に狂ったような無差別爆撃をくりかえし、国民政府の軍隊と県庁の職員はみな持ち場を撤退しが、まだ日本軍国主義の地上部隊は到着していたわけではない。その頃は無政府状態になっており、各地で自衛組織がつくられていたから、いたるところに大小の司令部ができていたともいえるだろう。
 そうして1938年秋になると、国民革命軍第八路軍が私たちの県に進駐してきて、県知事に抗日政府の擁立を委任し、県、区、郷、村の各級抗日組織をつくっていった。冬になり、日本軍国主義の地上部隊も鶏澤県に到着し、県都を占領した。

 抗日政府は農村に引っ込んだ。以降、県の抗日戦争は次のようにくり広げられた。日本軍は兵員が少なければ県都にさえ出動しようとしないが、逆に多くなると、各抗日組織の方が広大な農村に展開し日本軍に応酬した。このようにして抗日勝利の日まで戦闘をくり返し、私個人もまた河北省南部各地区で戦った。それは次のようなものだった。

 1.1939年8月私は中国共産党に入党し、このときから革命への道程を歩み始め、早々に村の党支部組織委員を担当した。
 そのころの党組織はまだ公にされていなかった。
 ある支部会議での党支部書記の講話は、私にとって終生忘れがたい。
 「同志諸君、仕事は真面目に、党に責任をもち、党規律を厳格に遵守しなければならない。党員の身分を暴露してはならないし、いかなる党内の状況も党外の人に話してはいけない。それは、父母、兄弟、姉妹、妻、子女、親戚・友人をも含む。もし予想外のことが起こったら、たとえ自分が犠牲になってもいかなる同志のことも話してはいけない。これが鉄の規律だ」。
 それ以来、私は抗日革命闘争の活動において党組織が公開されるまでは、ずっとこの規律を遵守してきた。
 いま私は記憶も新たに思い出す。村の早い時期の党員は大方世を去った。今では、私1人が生き残っているだけだ。

 1939年11月、鶏澤県連絡事務所(県党委員会)から私に学習に行くようにとの通知があった。
 出頭してみると2人の顔なじみがいた。学友の張慶林(変名は張哲)と張振鐸(変名は張承教)だった。
 2人は学習内容を「党の基本知識だ」と言いわたし、同時に、「個人の姓名やどこそこの村だのと言ってはならず、各人順番に整理番号をつけられるから、ただその番号を呼び合うまでのことだ」との学習規律を申しわたした。私が1番だった。さらに私たちの今期学習班は基礎学力がもっとも高く、その他の同志はほとんど文字を読めないとのことだった。張承教が「1番がみんなの学習と討論を按配するように」と説明した。このようにして10数日間学習して終了した。

 1939年12月、私は翼南〔*河北省南部〕財経幹部訓練班に行って学習せよという県委員会の通知を受取った。
 県委員会に着くと、私を応接したのは張哲だった。彼は多くを語らず、「君が翼南財経訓練班へ学習に行くにあたって、3元辺幣〔*(晋察翼辺区=山西・旧察哈爾・河北3省にまたがる農村根拠地)銀行発行の貨幣〕を旅費として支給する。少し待てば君を案内する者を差し向ける。党組織の証明書は案内人が持参する」とだけ言った。
 私は、「自分は変名を張振元にしようと思う」と言った。彼は、「よろしい」と言う。張振元の名前はその日から使い始めた。
 案内人が到着してすぐ出発した。この人が何という名前かは永遠に知りようのない秘密だ。第3地区委員会に着くと応対してくれたのは王という同志だった。夜、私といっしょに学習に行くという同志がもう1人やって来た。その日はその村に宿泊した。

 翌日、鶏澤県委員会の案内人は戻って行き、地区委員の王同志が私たち2人に当面の情勢となぜ私たちを学習させるかについて、講義を始めた。
 彼はまずこう言った。
 「戦争の風雲は今まさに世界中に拡大している。日本軍国主義は中国を侵略するに止まらず、アジアの諸国家に侵略をしかけ、独・伊ファシズムはアビシニアとチェコを占領しただけでなく欧州の多くの国家を侵略した。従って、私たちは日本侵略者を追い出さなくてはならないが、それは難しく長引くことになろう。同志たちが任務に参加するには次のような心構えが必要だ。苦しくとも戦いつづければ私たちは勝利を勝取ることができる」。
 次に彼は講義の終わり際に言った。
 「これは情勢の発展につれて必要になってくることだが、私たちは敵の後方での戦いのすべてに自力更生をもってあたらねばならず、それ故、銃撃戦だけでなく各種の戦闘、その中にある貨幣戦を戦うということだ。中国の従来の貨幣は使えないから、各辺区の貨幣を発行しなければならない。君たちがここへ来るときに各人が何元辺幣かの手当てを支給されただろう。それが晋察翼辺区が発行した貨幣だ。私たち翼南も独自の貨幣を発行することになるだろう。それは晋翼魯豫〔*山西・河北・山東・河南4省〕辺区内で流通するものだ。いったん貨幣が発行されれば各級機構が樹立されていく。君たちはこの任務にあたるのであり、仕事をしながら学ぶしかなく、片手に銃、片手に貨幣の武器をとって敵と戦うのだ。規律を遵守し指導者に服従し、敵との困難な戦いにあって任務を立派に遂行してもらいたい。これから案内人に君たちを送らせる。道程はかなり遠く、敵の封鎖線も越えねばならない。同志諸君がくれぐれも用心し道中無事であることを望む」。

 私たちは第3地区委員に別れを告げ、3人で行軍を始めた。案内人が何という名前か知らないしまた聞きただすこともできない。これは秘密の交通ルートで、対外的に非公開だった。
 しばらく歩いてある村で休んだ。昼は封鎖線を越えることができず夜にならないと無理だからだ。
 案内人は、「今晩、邯館道路〔*邯鄲―館陶間〕を通過するときは、その村の武装要員に護衛してもらう」と言った。食後すぐ行動に移った。道を通り抜けるとき両側に敵のトーチカが見え、みな緊張したが、何ごともなく過ぎた。そのまま北の方角に向かって進み、しばらくしてある村に停まった。
 夜にならないと邢済路〔*邢台―済南間〕を通過できないので、まだ時間がありみんなで一眠りした。案内人は言った。「邢済路を通過するのは邯館路よりやや難しい。だが武装要員が送ってくれるから、同志たちはその指揮に従ってください」。間もなく6人の武装護送要員が到着した。出発してほどなく邢済路の傍に着き、音もたてずに道路に接近した。4人の武装要員が二手に分かれ私たちと距離を置き、地に伏して道の両側にあるトーチカの敵兵を監視した。
 道路の北側には深さ2、3㍍の排水溝があり、2人の武装要員がすばやく降りて、私たち3人をさっと昇り降りさせてくれ、彼ら2人は速やかに南岸に上がった。行動は機敏で無駄がなく整然と秩序だっていた。それからものも言わずにそれぞれの道を進んだ。私たち3人は東北に向かっておよそ二、三時間歩き、またある村に泊まった。
 案内人は言った。「同志たち疲れたでしょう。さあしばらく眠りなさい。明日から道は歩きやすい。道のりはまだまだだけれど、もう封鎖線を越えなくてもいいから昼進んで夜は休むことができる」。

 翌日、私たち3人は宿主に別れを告げ出発した。広宗県の県境内を歩きながら明日には威県の県境に入るころだった。
 案内人が多弁になり、ある村で昼食をとったとき彼は言った。「君たちと私の間柄は互いに打明けあうことは許されていない。これは組織規律だが、君たちはよく遵守しているようだ。君たちは学習に来たのだ。明日はいよいよ目的地、つまり翼南地区党委員会、行政行署〔*中国解放前や建国直後の地方行政機構。専署を統括〕、翼南銀行本店に到着する。どのように学習するかは彼らが取りはからってくれる」。
 私たちは垂陽に着くと地区党委員会の紹介状をもらい、翼南銀行本店のある楊常屯に行った。
 応対したのは本店の于志同志だった。昼食は彼が私たち3人の相手をしてくれ、さらに互いに自己紹介をし合った。
 食事のあと、案内人の同志は言った。「同志たちとはこれでお別れだ。君たちの名前は今日から公表できる。学習、任務、遊撃がこれから始まるね。さようなら。張、陳同志」。

 2.案内人を去ってから于志同志が言った。「君たちはまずここで少しお休みなさい。道中ご苦労さまでした。一眠りしてしばらく待ってください。私はまた来ます」。言い終えると出て行った。
 于志同志は戻って来ると私たちに本店の各課執務室を案内した。本店は合わせて3課1室を備えていた。私たちは社長と秘書に会った。

 その日、私たちは初めての行軍・遊撃戦を開始した。
 翼南銀行本店の同志たちは必ずしも同じ村に居住しているわけでもないのに、翼南軍区、地区党委員会、行政行署と行動をともにしていた。各課執務室の同志たちは荷物を担いでいたが、私たち新参者だけが自分の小さなかばんをもった。
 それにしても総務課の人たちが見当たらない。私たち本店の隊列がある村に行軍したとき、真っ先に総務課の王一農課長に会った。そして彼は私たちを泊まる場所に案内してくれた。
 途中私は王課長に訊ねた。「あなた方は早く来ていたのですか」。彼は、「私たちは先遣隊だよ。そうでなければ同志たちが来ても泊まる場所もないではないか」と言った。
 それ以降私たちは会計課で学習した。食事、宿泊、行軍、遊撃いずれも会計課の同志たちといっしょだった。
 会計課の責任者は、まず私たちに翼南銀行がどんな会計制度を実施しているかを説明した。それは収支式会計制度というもので、記帳者は顧客に対応して複式記帳法を運用し、各機関相互のすべての業務取引を記載して、銀行の現在の業務状況により設置された科目に応じて計算をする。
 例えば私たちは当面、本・支店処理、業務取引、金庫現金収支…等の科目を設置した。科目により元帳と明細帳をつくり、業務表に基づき伝票(記帳証票)をつくって各種明細帳に記載する。伝票によって10日ごとに旬表を作成し、旬表により元帳に記載する。月末に元帳に基づいて資産負債表を作成する。これが当面の銀行会計の計算過程だ。まだ業務は多くはなく、また複雑でもない。同志たちは見ながら実際にやってみて、早々に学びとることができた。
 会計課で一定期間学習したのち、私は総務課に転任になった。

 その日私は総務課に出頭し、部屋に入るなり王一農課長に会った。
 私が「課長のもとにまいりました」と言うと、彼は「張君、君たちは会計を学びに来たはずなのに、どうして総務をやりに来たのかね」と言った。
 「それはあなた方指導者にお訊きしたいことです」。「わかった、わかった、張君を歓迎するよ」。
 王課長の指導のもとで総務の仕事が始まった。
 総務の仕事は私のような駆け出し者にとって物珍しかった。実際、機関は毎日執務地点を変えた。ことわざにいうように、「兵馬未だ来らずも、糧食・飼料先に来る」〔*「備えあれば憂いなし」〕である。
 総務課は日々先遣隊で、私たちが食糧を調達して初めて同志たちが到着して飯にありつけるし、家畜に餌が与えられる。夕食後行軍の同志たちが去ってのちも、総務課にはまだ後始末が残されていた。
 こうして私は1ヵ月総務課で働いた。仕事はやはりとてもおもしろいものだった。

 ある日、課長が私に辞令を通知して言った。
 「張君、転勤になったよ。出かける準備をしなさい」。
 「どこへですか」。
 「新設の第四支店だ。銀行の大きな発展に必要なのだ。行ってしっかりやってくれたまえ」。
 私は総務課を発って于志のところ(本店で人事の仕事をしていた)へ行くと、さらに2人の同志がそこで待っていた。紹介されて、彼らは趙同順と趙何光で、いっしょに第四支店に行くのだとわかった。
 私たちは紹介状をもって新しく設立される第四支店に向かった。このとき本店を離れてからもう再び戻ることはなかった。

 趙同順同志が紹介状をもち、私たち3人は翼南銀行第四支店に到着した。
 実際、当時第四支店にはわずか5、6人しかいなかった。私たちを出迎えたのは肖主任だった。
 「君たちが来てくれることになって、これで支店もやっと設立される。すべての仕事が新しく始まる。今いる同志諸君がいわばみな銀行の開拓者だ。これから私たちはしばらくともに行動しよう」。
 そのころ支店は第4軍分区、第4専員公署〔*専署、省人民政府の派出機関〕、第4地区委員会と行動をともにしていた。
 支店でしばらく遊撃戦を戦っているうちに、多くの新しい同志がやって来た。支店は係を設け、会計、業務、出納、総務の各係がいずれも設置され始めた。しかし私たち本店から転属した3人はまだ手伝いのようなもので、正式な仕事は割り当てられていなかった。私は趙同順同志(本店から来るとき彼を責任者にきめていた)に、「私たち3人にはどうして仕事が割り当てられないのだろう」と訊ねた。彼は「支店にはおそらく何か考えがあるのだろう」と答えた。

 ある日肖主任が私たちに会いに来た。
 「支店は垂陽県に翼南銀行事務所設立を決定した。趙同順同志は主任、張振元同志は会計係、趙何光同志は出納係に任命する」。
 支店が紹介状を書くと私たちはすぐに出発した。

 1940年3月、私たちは垂陽県(元南宮県の一部)に到着した。
 県政府の所在地で何克県知事、各部門の同志、とくに財政課の同志と会った。
 まさにそのころ銀行は金庫代わりで、政府の収支すべてが銀行を通していたので、県財政課とのつきあいが多かった。
 県の指導者たちに、私たちは仕事の都合上単独で遊撃戦を戦うことを説明し、別れを告げた。
 このときから私たちは垂陽鎮周辺の各村で仕事をしながら遊撃戦を戦った。遊撃戦で敵の動きを探りに行くとき、趙主任はいつも私を趙君とともに行動させた。趙君は出納係で常に現金を背負って行動していたからだ。もっとも危険だったのは、私たち3人が離れ離れになり、2人の趙がどこへ行ったかわからなくなったときだった。

 私は何人かの見知らぬ人々といっしょに駆け回っていたが、いたるところで銃声がひびき敵がどの方角にいるのかわからない。
 私たちが敵情を探りながら砂の丘陵を越えたばかりのとき、真正面から2人の銃をもった人がやって来た。てっきり敵の便衣隊〔*平服を着て変装している武装部隊、遊撃部隊〕かと思いみな狼狽し、ある者は顔面が蒼白になった。銃をもった人はその様子がわかったのだろう。
 すぐに言った。
 「恐がらなくていい。私たちは八路軍の偵察員だ。君たち前に進んではいけない。向こうに敵がいる。この辺にしばらく隠れているといい」。
 これを聞いてみんなはまず驚き、それから喜んだ。味方の偵察員に出くわしたのはまさに幸運だった。さもなければ今ごろほんとうに敵の陣地に入っていただろう。
 私はこうして垂陽県銀行で4ヵ月余り会計の仕事をして、その年7月また転任になった。仕事を趙くんに引き継ぎ、彼が会計と出納を兼任することになり、私はすぐさま垂陽を離れ支店に向かった。

 支店に着いてから初めて清江県に行って仕事をするのだとわかった。
 この県も新しく成立した県で、ちょうど「7月7日」に新設された。
 抗日戦争はもう3年もつづいていた。
 肖主任は私を田向栄同志に紹介して言った。
 「君たち2人には清江県に行って仕事をしてもらう。田向栄同志は主任、振元同志は会計と出納係に任命する」。
 私たちは支店の紹介状をもって清江県政府の所在地に行った。村に入ってすぐ中庭に出ている人を見かけて、中に入って行った。
 一言訊ねるとその人こそ都合よく姫県知事だった。
 彼は紹介状を見て言った。
 「ようこそ。県の機構は成立したばかりで、すべて一から始まる。君たちはこれから政府とともに行動するのか、単独で行動するのか」。
 私たちは、「政府に面倒をかけたくないので、やはり単独で行動します」と言うと、「県の財政課の者も単独で行動しているから、君たちは彼らといっしょにやりなさい。みな地元の人たちだから状況がよくわかっている。楊常屯に泊るといい。私が手紙を書いてあげよう。政府はもうすぐ移転する」。 
 私たちは県知事に別れを告げ楊常屯に向かって歩き出した。

 到着して財政課の王丙南課長やその他の同志たちに会い、一人一人紹介し合った。今後私たちはともに仕事し、ともに生活し、ともに敵と戦うのだ。
 そこへふいに1人の老人が入って来た。
 王課長が「もう1人私たちの炊事係の『二把師』〔*2番目の親方の意〕がいたじゃないか。これはみんなが彼につけたあだ名だ」と言った。
 彼がつくるマントウは一種独特の風味で、縦に細長い形をしていた。
 かくして私は清江県銀行で1年仕事をした。銀行の通常業務以外にも、私と田向栄主任は町に出かけ使い古した紙幣を両替した。
 この付近は敵に対する闘争の条件がますます困難になっていた。当時の戦局について特筆すべきことは次の2点である。

(1)日本軍は根拠地を二分割した。
 つまり南宮から邢済路上の王宮荘まで1本の道路をつくってトーチカを林立させ、掃蕩も頻繁になった。私たちの常駐する村とこの道路はとても近いのでそこを避け、私たちは南に向かって移動し、南北候貫一帯で遊撃戦を戦った。

 (2)世界の戦局はすでに極点に達していた。
 欧州の戦場は独・伊ファシズムが欧州国家の大部分を占領し、ソ連のモスクワにまでも侵攻していた。ソ連とドイツの戦争は決戦の色合いを帯び、日本帝国主義は中国を侵略したばかりでなく、アジアの幾つかの国を占領しなおかつアメリカにまで攻め入っていた。つまり太平洋戦争の始まりである。世界大戦の結果を予測するのは当時まだ難しかった。

 ある日、田向栄主任は支店から戻って来るなり言った。
 「振元同志、君は会計と出納の仕事を私に申し送ってくれ。支店は君の転任を決めた。今度は邢済路付近の広曲県らしい。紹介状は私が預かっている。仕度をしたまえ」。

 私は紹介状をもって清江県を出立し、邢済路の封鎖線を越えて企之県境内に着いた。ついでに企之県銀行に立寄ってみようと思った。というのも邢済路を通る者は、みなこの銀行にいる人たちをよく知っていたからだ。
 企之県銀行に着くと尹之明主任は私を一目見て少し考えながら、「振元同志、待っていたよ」と言う。
 私は彼らの言動に驚いて言った。「あなた方は何を言っているのですか」。
 尹主任は、「支店は君をここに転勤させたのだ。君はまだとぼけているのか」と言う。
 「とんでもない。これは私に広曲県に行けという紹介状じゃないですか。道すがらみなさんに会いにきたのですよ」。
 「君はなかなか話がうまい。だが来るのは遅れたね。支店の紹介状はすでに私たちの手元にあるんだよ」。見てみるとほんとうにそうだった。
 私は言った。「尹主任、私はまだ着任していないんですよ。あなたという主任は、転勤を途中で打切ってしまうなんて何てひどい」。みんなどっと笑った。
 彼はすぐに、「こちらが新任の張振元主任です」と紹介し、その他の同志を一人一人紹介した。
 彼は、「これではっきりしたじゃないか。わざわざ広曲まで君を探しに行く手間が省けたよ」と言い、私が「ほんとうにあなたのお陰で、仕事の方から私の目の前にやって来た」と言って、みんなが笑いお開きになった。私と尹の引継ぎが終わり彼は支店に戻った。こうして私は企之県銀行の主任になった。
 
 私は企之県銀行で1年働いた。この間の仕事の状況は次のようなものだった。

(1)銀行の業務範囲が拡大した。銀行を通じて一部の商店に投資し、代理店を設立して、為替業務も取扱いを開始した。紙幣は額面価格50元まで発行され、市場に偽札も出回り出した。これらいずれにも力を注がねばならなかった。

(2)日本帝国主義軍隊による掃蕩も頻繁になっていたので、常に敵の動きを探った。

(3)私のところの幹部はみな地元の人だったから、夜になると家に帰った。それで敵に動きがあるときは、炊事員か通信員のいずれかが私とともに遊撃戦を戦った。

 あるとき、炊事員の張勤功が私といっしょに敵の動きを探っていた。
 砂漠の中の林まで来たとき周囲に銃声が聞こえた。
 張勤功が私に訊いた。「張主任、周りは敵だらけだ。どっちに行けばいいと思う」。
 私は、「勤功同志、私たちは走ってはいけない。敵に出くわしてしまう。砂漠の中にある小さな村の黄河套に行ってみたらどうだろう」と答え、その村に着いた。
 村には人影がなく、周囲の村々から銃声が聞こえた。
 私たちはじっとして敵が動きを変えるのを待った。
 午後3時過ぎ、周辺の村が静かになり敵が去ったことがわかった。こういうときこそ肝腎でますます冷静な判断が必要だ。つまらぬ目にあうわけにはいかない。
 翼南銀行第四支店は邢済路の南の企之県一帯で活動したのち、企之県銀行は撤収した。金庫を管理する幹部は県財政課に復帰し、出納員や通信員、炊事員もみな家に引き揚げ、私だけが支店に戻った。

 1942年8月、私は支店に着いてのち出納係長を任命され、紙幣の出し入れ業務に従事した。
 当時支店の主任は王一農(本店のときの総務課長)、政治委員は顔志敏(そのころ銀行は軍隊の系列に属していたので政治委員は軍分区から派遣されていた)だった。
 私は支店で2年近く働いたが、その間支店の指導者は何度か異動した。しばらくして王一農主任と顔政治委員は転出し、武任真主任(本店秘書の賈王甫、変名が武任真)と張浩天政治委員に代わった。またしばらくして武任真主任が転出し、王一鳴主任になった。中間幹部は異動がさらに多かったが、私だけは異動がなかった。

 ほかに特筆すべきことがある。

 第1に、42年と43年、翼南の地には天災のうえに人災が重なって襲いかかった。
 日本帝国主義軍隊による放火、虐殺、人狩り、掠奪、さらに、2年間雨が降らない自然災害によって、見わたす限り剥き出しの赤土が拡がっていた。人々の生活状況は想像に難くない。

 次にこの年、1944年の世界の戦局についても触れておこう。
 中国の抗日戦争も7年、世界大戦もすでに5年経過していた。欧州とアジアの戦場では連合軍が反撃し、年内にドイツ、翌年には日本を打ち破って決着をつけると方針を打ち出した。
 世界中の人々が独・伊・日ファシズムに最後の一戦を挑んでいた。それこそ独・伊・日ファシズムの終焉が迫りつつあった。

 1944年4月15日は、終生忘れることのできないきわめて厳しい教訓を与えられた日となった。
 夜がまだ明けぬころ、私たちの滞在する村が日本帝国主義軍隊に包囲され、私たちのうち6人が捕えられた。私がその1人だった。
 それから臨清、済南、青島を経て日本に連行され苦役に服し、投獄され原子爆弾の被害に遭って、日本帝国主義が降伏してからやっと祖国に戻った。

 以下は私がどのようにして翼南銀行第四支店と祖国を離れたかの記録である。

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◆ 原   文 ◆
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三.青年时代参加革命工作记忆

  我和张振铎同学于一九三七年八月离开石家庄铁路学校,乘火车到永年搭连镇下火车就朝鸡泽县走去,到达县城后大街上乱纷纷的。我们俩就直奔母校,因战争关系学校也停课了,只有老师还在学校。我们两个给老师讲了情况就各自回家走了。

  一九三七年的秋天,日军飞机对冀南各县城都进行了狂轰烂炸,国民政府的军队和政府人员都撤离了,但日本军国主义的地面部队并未到来。当时形成无政府状态,各地成立了一些自卫组织,也可说司令大小遍地司令部。一直到一九三八年秋,国民革命军第八路军进驻了我们那个县,委任了县长成立了抗日政府,组织县、区、乡、村各级抗日组织,到了冬季日本军国主义者的地面部队也到了鸡泽占领了县城。抗日政府就到了农村。以后鸡泽县的抗日斗争就是这样展开的:日军人少就连县城都不敢出来,日军人数多了,各抗日组织就在广大农村与他们周旋,就这样一直战斗到抗日胜利,就我个人而言在抗日战争期间在冀南各地战斗过。现述如下:

  一.一九三九年八月我参加了中国共产党,从此正式走上了革命征程,很快担任村党支部的组织委员。那个时候的党组织这是不公开的,一次支部会上党支部书记的讲话使我终生难忘,他说:同志们,作事要认真,要为党负责,严格遵守党的纪律,不准暴露党员身份,不准对党外讲任何党内情况,包括自己的父母、兄弟、姐妹、妻子、儿女、以及亲戚朋友,如有意外宁可自己牺牲也不准讲出任何同志,这是铁的纪律。以后在抗日的革命斗争活动中,党没有公开前我都是这样遵守的。我现在回忆起来都记忆犹新,我们村的最早的几个党员大都去世了,现在来说只剩下我一个了。

  一九三九年十一月鸡泽县联络站(即县委会)通知我去学习。报道后一看原来两熟人:张庆林(化名张哲)、张振铎(化名张承教)同学,他们两个就宣布学习内容:党的基本知识,同时宣布了学习纪律:不要个人的姓名,什么村庄,每个人都编了号只叫号就是了,我是一号。而且是我们这期学习班文化最高的,其他同志可以说都是文盲,张承教介绍说:由一号来组织你学习和讨论,就这样学习了十多天就结束了。

  一九三九年十二月,我接到县委通知叫我去冀南财经干部训练班去学习。我到县委后这次接待我的是张哲,他没有多讲只是说:你去冀南财经训练班学习,给你三元边币(即晋察冀边区银行发行的货币)作路费,等一下派一个人送你,组织关系由送你的带着,我说:我应化个名子就叫张振元吧,他说,可以。张振元的名子是那天开始用的,送的人一来就出发了,此人叫什么名子那是永远也不能知道的秘密,到第三地委后接待的是一个王同志,晚上又来了一个同志,据说与我一同去学习的,当时就住在了那个村子。

  第二天,鸡泽县委送我的人就回去了,地委王同志给我们两个上了一课:当前的形势和为什么叫你们去学习,他首先说:战争风云在世界上正在扩大,日本军国主义不但侵略中国又向亚洲其它一些国家发动侵略,德意法西斯不但占领了阿比西尼亚和捷克又侵占了欧洲许多国家,所以我们要把日本侵略者赶出去将是难苦的也是长久的。同志们参加工作要有这样的思想准备,难苦奋斗下去直到我们取得胜利。其次他讲到学习时说:这是形势发展的需要,我们在敌后抗战一切都要在自立更生上去进行,所以不但有枪战还有各种战斗其中就有货币战。中国原来的那些货币不能用了,要发行我们各个边区的货币。你们来时不是每人发了几元边币津贴吗?那是晋察冀边区发行的货币。我们冀南也要发行自己的货币。它就在晋冀鲁豫边区内流通。货币一发行各级机构都要成立,你们就是去搞这一工作的,只能边干边学,一手拿枪一手用货币武器与敌作斗争,你们遵守纪律服从领导,在对敌艰苦斗争中把工作搞好,现在就派人送你们,路还很远,又要过敌人的封锁线,希望同志们多加小心一路顺利。

  我们告别三地委,三个人就开始行军了,送我们的人叫什么名子?不知道也是不能问的,这是一个地下交通线,对外是不公开的。走了一段路后,在一个村庄休息,因为白天不能过封锁线,晚上才行。送的人讲今晚过邯馆公路由该村武装人员护送,吃罢饭就行动了,过路时看到两边敌人的炮楼心情都很紧张,但平安的过去了。就继续朝北的方向走去,走了一段路后就在一个村庄停下,因为晚上才过刑济路,还有时间大家就睡了一觉。送的人说:过邢济路比过邯馆路难些,但有武装人员护送,同志们听指挥。不久六个武装护送人员就来了,我们出发不久就到了邢济路边,静悄悄得接近公路。四个武装人员分两边与我们保持距离后就外侧监视两个炮楼敌人:公路北侧有护路沟,有二、三米深,两个武装人员迅速下去,帮我们三人迅速下沟和上沟,而他们两人就迅速上了南岸,行动都干脆利落,有条不紊的,然后都连句话不说就各行各的路了。我们三个朝东北方向走去了,大约走了二、三个小时又在一个村庄住下了,送的人说:同志们都累了吧,那就睡一觉,从明天起我们的路就好走了,虽然我们的路还要走,但不过封锁线了就可昼行夜宿了。

  第二天,我们三个告别房东继续上路了,是走在广宗县境内,明天就进威县境了。这个送我们的人话多了起来,中午在一个村庄吃饭时他说:你们两个和我之间的情况不允许互相交谈的,这是组织纪律看来同志们都遵守得很好,你们是来学习的,明天就到达目的地,即冀南区党委、行署、冀南银行总行,怎样学习就由他们安排了。我们到垂阳拿了区党委的介绍信就到了冀南银行总行住地杨常囤。接待我们的是总行于志同志,中午饭是于志陪同我们三个吃的,并且互相作了介绍。饭后送我们的同志说;我就向同志们告别了,你们的名子从今天起就可公开了,今后的学习、工作、游击才开始呢,再见,张、陈两同志。

  二.我们在冀南银行总行的学习,送我们的人走后于志同志说:你们先在这里休息一下吧,一路辛苦也很累了,睡一下等一下,我再来,说罢就出去了。等于志同志回他就带我们到总行各科室看了一下,总行共设三科一室,我们见到了经理和秘书。

  当天我们开始了第一次行军,也叫打游击。不过冀南银行总行是跟冀南军区,区党委和行署一起行动的,虽然不一定都住在一个村庄。各科室的同志们都背了东西,只有我们新来的同志拿了自己的小包包。但是没有看到总务科的人。我们总行行军到一个村庄时,首先看到了总务科的王一农科长,并带我们去看住的地方,路上我问王科长,你们来得早呀?他说:我们是“先行官”吗,否则同志们来了就无地方住,以后我们就到会计科学习了,吃、住、行军、游击都与会计科同志在一起,会计科负责同志首先向我们讲了冀南银行实行的是什么样的会计制度。它叫收付式会计制度,记帐者是以第三者出现的运用复式记帐法,记载这个单位与其它单位的一切业务往来。根据银行现在的业务情况设有相应的科目来核算。如我们目前设有:总分处所,业务往来,金库往来现金...等科目。根据科目设总帐及明细帐,根据业务单据作传票(即记帐凭证)记各种明细帐,依传票十天造一旬表,依旬表记总帐,月底根据总帐造,资产负债表,这就是目前银行会计核算的过程,现在业务不多,也不复杂,同志们去看一看,具体作一作,很快就会学会的,我们在会计科学习了一个时期后,我就调到总务科去了。 

  那天我去总务科报到,进门就见到了王一农科长,我说:来向科长报到了。他说:小张,你们不是来学会计怎么来搞总务了?我说:这要问你们这些领导了,他说:好,好,欢迎小张同志。在王科长领导下,干起总务来了,总务工作对我这个初出茅庐的人来说,也是新奇的,实际上机关一天一个地方。常言说“兵马未到粮草先行”,所以说,我们总务科天天都是先行官,筹到粮草同志们到后才有饭吃,牲畜有草吃。一般晚饭后,行军同志们走后,总务科还要留下一个作善后工作。就这样我在总务科干了一个来月,对工作还是很有兴趣的。有一天,科长通知我说:小张同志,你的工作调动了,准备走吧,我问:调到哪里去?他说:是成立的第四分行,这是银行大发展的需要,去吧,好好干呀!我就离开总务科,到于志处(总行搞人事工作的)还有两个同志在那等着,介绍知道是赵同顺、赵何光,一同到第四分行去的。我们拿了介绍信向新成立的第四分行走去,从此离开总行以后再也没有回过总行了。

  由赵同顺同志持信,我们三个就到了冀南银行第四分行。其实当时第四分行只五、六个人。接待我们的就是肖主任:知道同志们要来,分行也才成立,一切工作都是从头开始,对现在的同志来说,都是银行的开拓者,现在我们都暂时一起行动。当时分行是与第四军分区,四专署四地委一起行动的。在分行打了一段游击,来了不少新同志,分行是设股的,会计、业务、出纳、总务股都建立起来了。但我们三个从总行来的好象还帮忙的性质,也就是说没有分配正式工作。我就问赵同顺同志(从总行来时指定他负责的)我们三个为什么不分配工作?他说:分行可能另有打算。一天肖主任找我们谈话说:分行决定在垂阳县建立冀南银行办事处,由赵同顺同志任主任,张振元同志任会计,赵何光同志任出纳。分行写了介绍信我们三个就出发了。

  一九四零年三月,我们到了垂阳县(原南宫县的一部分)。在政府住地见到了何克县长以及政府各部门的同志特别是财政科同志,正因为当时银行是代理金库的,政府的一切收支都要通过银行,所以与县财政科来往是很多的,给县领导说明,为了工作方便我们自己行动打游击。我们告别县政府的同志们。从此我们就在垂阳镇周围各村边工作边打游击了,在打游击跑敌情时,赵主任总是叫我与小赵走在一起,因小赵是出纳员身上常背着现金行动的。最严重的一次,我们三个都跑散了,也不知两个赵都跑到什么地方去了?我和几个不认识群众跑在一起,到处是枪声也不知敌人在什么方向?我们这几个跑敌情的刚翻过一个沙岗,迎面来了两个带枪的人。以为是敌人的便衣队都傻眼了,有的面如土色,带枪的人大概看出来了,立即说:大家不要怕,我们是八路军侦察员,你们不要往前跑了,那里有敌人,就在这一带隐避一下吧,这一讲使大家先是一惊后是一喜,否则真会跑到敌人圈子里去的,碰到我们部队的侦察员真是一幸。我就这样在垂阳县银行搞了四个来月的会计工作,已是该年七月我的工作又调动了,我将会计工作移交给小赵,他就会计,出纳双肩挑了,随即离开垂阳到分行去了。

  我到分行后才知道是去清江县工作,这个县也是新成立的县,正好是“七·七”建县,抗日战争已进行三年了,肖主任就把我介绍给田向荣同志,并说:你们两个是去清江县工作的,田向荣同志任主任,振元同志任会计和出纳。我们两个持了分行的介绍信就往清江县政府住地走去,一进村就看一个有人进出的院子,就进去了,一问真巧正问到姬县长,他看信后说:欢迎同志们到清江县来工作,县机构才成立,一切都从头开始,你们今后是与政府行动还是单独行动?我们说:还是单独行动吧,不给政府添麻烦。他又说:县财政科也是单独行动的,你们就与他们搞在一起来吧,他们都本地人情况熟悉,就住杨常屯。我给你们一封信就去吧,政府很快就要转移了。我们告辞了县长就朝杨常屯也走去。

  到后就见到财政科的王丙南科长,及其他同志都作了一一介绍,今后我们就工作在一起,生活在一起与敌人斗争在一起了,忽然又进来一个小老头王科长说:这不还有我们的炊事员“二把师”,这是人们给他起的外号。他作的馒头别有一翻风味,是长条竖起的形状。就这样,我在清江县银行工作了一年,除银行正常工作外,我和田向荣主任去集镇兑换烂钞。这一带对敌斗争的环境越来越艰苦了。当时的战局值得一提的是:

  一.日军把那块根据地一分为二了,即南宫到邢济路上的王官庄修了一条公路,碉堡林立,扫荡也频繁多了。我们常住的村庄离这路太近了,就向南移到南北候贯一带打游击。

  二.世界战局已打到最高峰了,欧州战场德意法西斯已占领了大部分欧州国家打到苏联的莫斯科城下,苏、德战争带有决战性质,日本帝国主义不但侵略中国,占领亚洲一些国家而且进攻美国了,也就是发动了太平洋战争。世界战争结局在当时还难以料到的。

  一天,田向荣主任从分行回来,一见面就说:振元同志你把会计、出纳交给我吧。分行已经决定把你调走了,据说是到邢济路那一边的广曲县。并把介绍信交给了我,准备走吧。

  我持信离开清江县越过邢济路封锁线就到企之县境内了。想顺便去企之县银行看一下,因为来经过邢济路都要在该行停留的都熟悉,就到了企之县银行。尹之明主任一见我微加思索地说:欢迎,振元同志到来。他们的行动使我一怔,我说:你们这是作什么?尹主任说:怎么分行把你调到这里来,你还装糊涂?我可不装糊涂,你们开什么玩笑?这不我的介绍信是到广曲县的,路过此地来看一下同志的。尹主任说;你讲得不错,可你迟到了,这不分行的信已到我们这里了。我一看果然。我说:尹主任,我还未到任,你这个主任呀,就中途截留了,真厉害呀!大家都笑了,他就立即介绍说:这是新来的张振元主任,把银行其他同志都一一作了介绍,他说;这不都清楚了,也免得我去广曲找你。我说:真有你的,把工作做到我的前边了,大家一笑了之。我与尹交接完后他就回分行了,我这就算是企之银行主任了。

  我在企之县银行工作了一年,此期间工作情形是:一.银行工作范围扩大了,由银行投资办了一些商店,设立了一些代办点,汇兑业也开始经营,钞票面值发行到五十元,假钞市面上也发现了,这些都要加强工作。二.日本帝国主义的扫荡也频繁了,经常跑敌情。三.因我那儿干部都是本地方人,到晚上都回家住去了,因此一遇敌情不是炊事员就是通信员与我一起打游击。一次炊事员张勤功与我一起跑敌情,走到一个沙漠树林中一听周围都有枪声,张勤功问我说;张主任这周围都有敌人,你看这朝哪走?我说:勤功同志我们两个不要跑了,否则会与敌人碰上的,我看就朝那沙漠里边的小村庄黄河套走去吧,结果我两到了那个小村庄。其实村中也没有人了,周围村庄都枪声,我们两个就不动了,静等敌情变化,下午三点多钟,远近各村都静了下来,说明敌人都回去了。就是说越是情况紧急越要冷静判断,才不会吃亏的。冀南银行第四分行到邢济路南企之县一带活动后,企之县银行就撤消了,金库干部回县财政科,出纳员回家了,通信员、炊事员也都回家了,只有我一个人回到了分行。

  一九四二年八月我到分行后,任出纳股长,就是跟钞票打交道了。当时分行主任是王一农(在总行时的总务科长)政委颜志敏(当时银行属军队系统所以叫政委是军分区派来的)。我在分行工作了近二年,此期间分行领导调几次,即不久王一农主任和颜政委调走了,换上了武任真主任(即总行秘书贾玉甫,化名武任真)张浩天监委,不久武任真主任调走了,换上了王一鸣主任,中层干部就调换的更多了,只有我这干部没有调动。另有一些事也值得一叙:首先是四二年和四三年在冀南这块土地上是天灾加敌灾:日本帝国主义的烧杀俘掠。自然灾害二年没有下雨,赤地千里,人民的生活情况就可想而知了,其次此时即一九四四年的世界战局也说几句,中国抗日战争也打了七年,世界大战已打了五年。欧州战场和亚洲战场盟军都在反攻并提出今年打败德国,明年打败日本,已成定局。全世界人民对德、意、日法西斯的最后一战了,也就是德、意、日法西斯的末日到了,再次一九四四年的四月十五日,是一个教训极深刻的日子,我将永世不忘。天还未亮,我们住的村庄就被日本帝国主义包围了,我们有六个人被抓去,我是其中之一。从此经临清、济南、青岛到日本作苦工,坐牢房、受原子弹之害,直到日本帝国主义投降后才又回到了祖国。这也是我怎样离开冀南银行第四分行和祖国的。

2009/09/05

四.抗日戦争参戦時期の一時平常ならざる個人的体験

 1944年4月15日、私たちの機関が滞在する村が、突然、日本帝国主義の掃蕩部隊に包囲された。冀南銀行第四支店は、敵兵に6人捕えられたのだ。私はそのうちの1人だった。
 のちに臨清、済南に監禁され、飢えに苛まれながら、青島から船で日本に連行された。途中暴風雨に遭い、すんでのところで海底に葬られそうになった。
 日本に着いてから新潟の港の埠頭で強制労働をさせられた。食糧は足らず、寒さをしのぐ衣服もなく、病気になっても治療ひとつしてもらえない。
 その後また日本人に捕まり、広島刑務所に監禁された。
 45年8月6日、原子爆弾が広島に落とされ町は廃墟と化した。私自身も運命をともにしたが、幸いにも殉難を免れた。
 その年、8月15日、日本帝国主義は降伏した。私もすみやかに祖国に帰った。次にこれを詳しく述べてみよう。

1.私はどのようにして日本に連行されたか?

 1944年4月15日は、きわめて深刻な教訓を与えられた日となった。終生忘れられはしない。
 その直前、私たちの機関は、軍分区と専員公署から通知を受けた。「周辺の敵軍は各拠点に兵を充填しているから、おそらく近々規模の大きい掃蕩を実施するだろう。準備をしっかりしておくように」。しかし、翌日(15日)各県の主任会議を開かねばならず移転できない。
 この規律違反の遊撃戦は次の結果をもたらした。村は、未明、敵軍に包囲され、同志6人がともに捕まり、私はそのうちの1人であった。この教訓がいかに厳しいものであったことか。

 日本軍は企之県四合寨村で休んで、捕まえた人々を護送しながら、すぐに西南の方角に向けて出発した。その夜はある村に泊った。その村には明らかに住民がいなくなっていた。
 私たちは1室に監禁された。敵は食料も水もくれなかった。翌日、日本軍は邱県の県城の近くを通ったが、町には入らず左に曲がって邱館道路〔*邱県と館陶間〕に上がり道に沿ってまっすぐに東方を目指して進み、衛河をわたり冠県の町に着いた。私たちはいっしょにある孔子廟に閉じこめられた。この日も食べるものはなかった。
 17日、日本軍はふたたび衛河をわたり、西北の方向に進んだ。沿道でさらに数人捕まえ、その夜尖庄という敵軍の拠点に泊った。私たちはトーチカの最下層〔*地下になる〕に閉じこめられた。そこにはすでにたくさんの人々が監禁されていた。
 訊けば、彼らは要求された金や食糧を出せずに捕えられた平民だという。
 たぶん私たちが飢えている様子が見てわかったのだろう。その1人が私に高梁焼き餅〔*「餅子」〕をくれた。これこそ救命の焼き餅であった。このことは今でも忘れられない。残念なことにその人の名前も住所も知らない。
 18日、日本軍はまた東方に向かって出発した。さらに衛河をわたりしかも橋があって、そこは臨清とわかった。

 掃蕩をした日本軍は臨清から派兵されていたのだった。私たちはある傀儡警察署に監禁された。 
 その部屋は広さが約40余平方㍍で、40人以上の人たちがすでに収監されていた。私たち50余人が加わって室内は満杯になった。鉄柵のある窓の内側に監禁されてようやく縄が解かれた。
 毎日、午前1回1個の高梁焼き餅約1両〔*50㌘〕余りと冷水1杯を与えられ、午後5時に1回便所に行かされた。
 先に監禁された人たちから状況は悪化していくようだった。すでにある者は虐待されて死んだという。
 ある日、傀儡警官が部屋の入口で叫んだ。「今日は、みんな1人ずつ登録に行くんだ」。
 私の番になった。監房から出て左手に行くと、さほど歩かないうちに北側で南向きの小屋があった。
 机の向こう側に傀儡警官が2人座っていた。入ると立っているように言われた。1人は尋問し、1人は記録しているようだ。
 前の人がすでに話し始めていたので、私はどう答えるかひそかに算段した。    

 「お前の名前は何ていうか」…「高清珍」
 「どこの出身か」…「河北省曲周県林子村」
 「何歳か」…「23歳」
 「職業は」…「郷里の村の小学校教師」
 「家にはほかに誰がいるか、名前は何というのか」…「母親ひとり、高程氏という」

 このようにして、どうやら質疑は終わった。前の人と同じだった。質問した傀儡警官が手を一振りし、私はまたもとの監房に戻された。
 敵はいかなる行動をとろうとしているのか。
 何日かして敵はいきなり、監禁されている人たちを済南に送ると言いわたした。済南に行って何をするのか、知り得ようはずもない。
 傀儡警察署に2台の大型トラックが、数人の日本兵とともに入ってきた。しかし、監禁されていた人々はみなトラックに乗るカがない。傀儡警官に支えられてやっと乗った。
 そればかりか彼らは「こいつらもうすぐ死ぬんだ」と言う。
 どの車も日本軍の警護付きで、それらの日本兵はまるで泥人形のように銃を捧げもっていた。
 車は臨清から東に向かって出発した。途中1人死に、死体は路傍に投げ捨てられた。車は停まりもしなかった。
 中国人に対する扱いは残酷なものだった。臨清に監禁された1ヵ月余りはこれで終わり、先には済南の日々が待ちうけていた。

 日本軍のトラックは、済南郊外の高い塀垣をめぐらした門の前で停まった。
 塀垣には電流を通した鉄条網が張ってあり、門前を日本兵が厳重に警備していた。日本兵が1人車を降りて守衛室に向かい、戻るとトラックは中に入った。
 このとき、私は正門の上方に横書きされた「新華院」の大きな3文字を目にした。
 車が停まると数人の男が回りを取り囲んだ。男たちはいかにも心得顔で、名簿を見ながら点呼を始めた。私たちは3組に分けられ、私と劉功臣という名の男がいっしょに1人の男に付き添われて、平屋建ての小屋に連れていかれた。
 付き添いの男は自分から名乗って言った。「私は、孔といい、この幹部隊の隊長だ。ほかはみな幹部隊の隊員だよ。一人一人紹介はしないが、しばらくいっしょにいれば、そのうちわかるさ。今日の新入りは、高清珍と劉功臣だ」。
 その小屋には3部屋あった。私たち2人は真ん中の1部屋に入れられた。どの部屋も板張りだった。しかし敷きものどころか掛けるものもなく、着の身着のままごろ寝するだけだった。
 これが初日「新華院」を一瞥してわかったことだ。

 この日本軍が建てた「新華院」とは、そもそも何をするところなのか。数日して当然知ることになる。
 もともと中国各地から人を捕まえてきて日本に送り、苦役させるところだった。いつのころから始めたのかはわからない。
 私がそこにしばらくいてみてわかったのは、次のようなことだ。
 ほとんど毎日、捕まえられた人々がやって来て、隊を編成した。隊長は幹部隊から任命された。
 1つの隊は隊長を除いて5班に組まれ、1班20人ずつで正副の班長が決められた。1隊101人になる。
 実際の管理は労工協会があたった。
 監視の日本軍兵は100人以上いた。彼らは東側の塀の外に住んでいた。
 簡単な訓練をしては日本へと送る。つまり強制拿捕、連行であった。その間隔は数日間に1回ぐらいだったろうか。たとえば私たちの場合、私を除くほかの人々は、何日もしないうちにすぐ日本に送られた。

 「新華院」に監禁された者はみなとんだ災難だった。
 朝、小さな茶碗1杯の粥飯、昼と夜は同じく小さい茶椀の高梁飯があてがわれるだけだ。もちろん足りはしない。着るものといえば、捕まったときのままだ。
 人々はひどく痛めつけられ、とんでもない有様で連れてこられるが、病気になっても治療してもらえず、病棟に放り込まれて天命を待つよりないのだった。10人いれば9人は死に、毎日馬車が死体を外に運びだした。私は見なかったが、「新華院」の外には万人坑があるとのことで、死体はその穴に投げ捨てられておしまいなのだという。
 この山東省済南の日本軍国主義者がつくった「新華院」で、いったい何人の中国人が迫害死させられたのだろうか。当時の日本帝国主義者と傀儡労工協会のみぞ知るだ。日々死体を運びだしたのだから、推測できようというものだ。

 人道に反してもっとも陰惨だった一場面を思い出す。
 ある日、日本軍は事務棟の前の広場に、収監者を呼び集めた。みんなが今日はどうしたことかといぶかしく思っていると、部隊長と呼ばれる日本軍の頭目と通訳、そして日本兵の一隊に引きずられて、一糸身にまとわぬ男がみんなの前に現れた。
 頭目と通訳は拡声器に向かって話し始めた。
 「みんな、よく見てみろ。これが昨日外に仕事に出た隙に逃げようとした男だ。こいつは逃げだせずに捕まった」。
 頭目は兵士に手で合図をした。その兵士は銃剣を取り出し、逃亡者の胸に狙いをつけてたてつづけに突き刺した。さらに、あろうことか、猟犬を放して死体を噛み千切らせたのだ。実に見るに耐えない惨状であった。仲間たちはみなうな垂れた。
 次いで頭目は言いわたした。「見たか。逃げようとする奴は、みなこれと同じ目に遭うぞ」。そこで解散になった。
 日本軍国主義とは何と残忍で非人道的であったことか。

 1944年8月、私も日本に送られることになった。「新華院」には2ヵ月余りいたことになる。幹部隊に別れを告げ、一般隊と同行した。
 傀儡労工協会は大隊長、3人の中隊長を集めて申しわたした。「このたび日本に行く1つの大隊は、3つの中隊で構成される。すぐに出発する。各隊は、私といっしょに衣服と布団を受取りに行く者を出してくれ」。
 私が隊に戻ってみると、各班2人ずつ出て、隊ごとに班長から服と布団をもらっていた。手にしてみると、以前日本に連行された人たちがもらったのと同じものだった。
 私たち300余人は、日本軍に警護されて済南から汽車に乗り、青島に送られた。翌日、石炭を運搬する貨物船に乗せられ、日本に向けて出航した。
 これこそほんとうの中国との別れであった。私たち全員が乗船すると日本軍は引き揚げた。船内で私たちを管理したのは、商人のような人たちだった。周りは海だったので逃げられはしなかった。

 船上での仲間たちの心情は容易に察しがついた。みな岸辺を見やって嘆息するだけだった。船は貨物船でさして大きくはなく、船倉の半分には石炭を積んでいた。私たちは甲板のテントの中で寝泊りした。
 船は山東半島に沿って東へと進む。連合軍の襲撃を免れるため、船は中国大陸と朝鮮半島の海岸線に沿って回り道をして航海した。たくさんの人々が船酔いをした。ある者は嘔吐し、トウモロコシ焼き餅を少しも食べられず、ただ横になってじっとしているだけだった。やがて岸辺は見えなくなり、明らかに船は遠洋を航海するようになった。
 ある日暴風雨に襲われ、船はまるで木の葉のように激しい波にもてあそばれた。
 日本人の1人が、大声で叫んだ。「カセ、カセ〔*風、風〕…」。だが、みんな何と言っているかわからない。
 私の隊の者が私の前に来て言った。「隊長、嵐だから早く船倉に入らねば」。そこで私はみんなに船倉に入るように指揮した。
 船倉に下りてから、彼に訊いた。「日本語がわかるのか」。彼は、「わかる」と言う。彼はもともと大連の電車の運転手をしていた。それ以来、通訳をするようになった。
 波浪は大きく、船の一番高い操縦台をも越える程で、実に危険であった。

 2日目、1中隊の1人が虐待による衰弱で死んだが、海中にぽいと投げ捨てられただけだった。これでも海葬に付されたといえるのだろうか。
 またある日の早朝、日の出とともに海岸線が見えた。みんなどこに着いたのか、日本だろうかと思案した。だが船の航路は着岸の方向ではなかった。太陽で判断すると南に向かって航行している。

 「たぶん朝鮮だろう」と言う者がいた。私もたぶんそうだろうと思った。のちにそうした判断が間違いでないことがわかった。朝鮮半島を過ぎてさらに東に進み、夜には日本の下関に着いた。夜は上陸しないので、翌日早く上陸した。これでとうとう日本にやって来たことになる。

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◆ 原    文 ◆
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四.我在参加抗日战争年代其中一段不平常的亲身经历

  一九四四年的四月十五日,我们机关住村突然被日本帝国主义的扫荡部队包围了,冀南银行第四分行被敌人抓去六人,我是其中之一。后临清、济南的关押和挨饿经青岛乘船去日本,途遇风暴险些葬身海底,到达日本后在日本新泻一个港口码头作苦工,吃不饱穿不暖,有病也不给治。以后又被日本人把关在广岛监狱。四五年八月六日原子弹炸了广岛,该城市变成一片废墟。我也身临其境但幸免于难,该年八月十五日日本帝国主义投降了,我也就立即回国了,下面将详述之:

1.我是怎样去日本的?

  一九四四年四月十五日是一个教训极其深刻的日子,我将永世不忘。此前我们机关得到军分区和专署的通知:周围敌人各据点增兵才可进行大规模的“扫荡”希作好一切准备,因明天(十五日)要开各县的主任会议而没有转移,这一违犯游击战的结果是;住村天未亮被敌人包围了,有六位同志被抓去,我是其中之一,这一个教训多么深刻呀:

  这伙日军在企之县四合寨是休息后就押着被抓到人朝西南方向出发了,当晚就住在一个村庄,显然村已没有人了,我们被关在一个房间里,敌人不给吃也不给喝的。第二天这些日军走在邱县城边,但未进城左转弯就上了邱馆公路,顺着路一直转东走去过卫河到了冠县城,住在一个文庙里,我们被抓的人关在一起,这是第二天没有吃东西了。十七日这伙日军又过了卫河朝西北方向走,沿途又抓到几个人,当晚在一个叫尖庄的敌人据点住下了。我们被抓的人关在炮楼最底层,而且里边已经关了很多人,经交谈知道他们是交不起钱粮而被关的老百姓。大概他们看出我们人饿得样子了,就有一个人给了我一个高粱饼子,这是个救命的饼子呀!这件事使我至今不忘,遗憾的是不知他的姓名和地址。十八日这伙日军又向东方出发了,又过卫河而且有桥,原来是临清了。

  这说明“扫荡”的日军是临清派出去的,我们就被关在一个伪警察所内,那间房大约四十多方米,原已关了四十来人加上我们就关的五十来人,房子已经满满的了,只是关在铁窗里边就不用绳捆绑了。每天上午给一次吃的,一个高粱饼约一两多,喝一次冷水,下午五点钟放出去解一次手,看得出原来先的人情况更不好,据他们说有的已被折磨死了。有一天伪警察在门口喊:今天每人都去登记一下,一个一个地去,轮到我了,出了关押房朝左手边去,没有多远进了一间坐北朝南的房子,一个桌子背后坐着二个伪警察,我进门就叫我站住了。看来是一个问一个是记录,因先来的人已经讲了我心中准备好了如何答复。

  问:你叫什么名子?        答:高清珍
  问:是哪里人?           答:河北曲周林子村人
  问:你今年岁多大?        答:今天二十三岁
  问:你是干什么的?        答:是我们村的小学老师
  问:家还有什么人?叫什么名子?  答:有老母亲一人叫高程氏    

  就这样算问完了与先问的人一样。那个问的伪警察一挥手,我又被押回原来关押的房子。说明敌人有什么行动了。过了几天敌人突然宣布要把在关押的人送往济南,去济南干什么也不得而知?伪警察所开进二辆大卡车还来了一些日本兵。但被关押的人都无力上车了,由那伪警扶助上车的,而且听他们说:“这些人算是留了一条活命”,每辆车上都日军押车,这些日本兵像泥塑一样端着枪。汽车从临清往东开去了,半路上死了一个人往车下一丢就完连车都不停,对中国人来说这多么残酷,我们在临清关押一个来月就此结束,前边就是济南了。

  日军的汽车在济南郊区一个有很高的围墙,有电网又有日军戒备森严门前停下了,一个日本兵下车到守卫室去了一下,回来汽车就开进去了,此时我看到大门上方的横联有“新华院”三个大字。汽车停下后围来一些人,好像他们都已安排好了似的,接过花名册就点名了,我们被分三伙,我和一个叫刘勋臣的人在一起,被一个人带走了,跟着那个人到了一栋平房的房间。他就介绍说:我姓孔是这个干部队的队长,他们都是这个干部队的队员,就不一一介绍了,在一起不久就会认识的,他说:这是今天新来的队员,一个叫高清珍,一个叫刘勋臣。那栋房子有三间,我们两个被安排在中间那一间,都是板子铺,但是既无铺的也无盖的,睡觉和衣一卧而已。这是当天对“新华院”一瞥的认识。

  这个日本军队建立的“新华院”到底是干什么的?呆了几天当然就知道了,原来是从中国抓人送到日本国内作苦工的,从什么时候搞起的不得而知。就我在那里一段时间,它的情况如此:几乎每天都有被抓来的人编成队,队长几乎都有干部派去,每队除队长外有五个班每班二十人有正副班长,共一百零一人,具体管理是劳工协会,简单操练后就往日本送,也就是说抓来送走。隔不了几天就是一次,如我们单位被抓来的人除我外其他几个人没有几天就被送到日本去了。

  在“新华院”对被抓去的人来说都是灾难性的,早晨一小碗稀饭,中午和晚上是一小碗高粱米饭,当然吃不饱,穿的都是被抓来时自己的衣服,来时人都被折磨得不像样子了,有病不给治往病房一送完了,听天由命,十有九死,每天都用轱轳马车往外送尸体。我虽未见过,据说“新华院”外有一个万人坑,往那个坑里一丢就完了。这个山东济南日本军国主义者搞的“新华院”到底迫害死了多少中国人?只有当时的日本帝国主义者和伪劳工协会知道。天天往外运尸体就可想而知了。

  最惨无人道的一幕,一天日军把“新华院”所有的人召集在他们办公大楼前的广场上,大家在想今天为什么这样作时?日本军队头目人称部队长的和一个翻译员及一队日本兵押着一个一丝不挂的人出现在大家面前,日军头目和翻译对着扩音器讲了几句话:大家看清楚了吧,这个是昨天到外边作工而想跑的人,可是他没有跑脱被抓回来了。日军头目向日本兵使了一个手势,那个日本兵端着刺刀对准苦工胸膛连刺二刀,这还不算,放出狼狗把尸体撕得粉碎。真是惨不忍睹,大家都低下了头,随即日军头目宣布:看到了吧,谁要是跑就是这样下场。就散会了。真是残无人道的日本军国主义。

  一九四四年的八月份我也要被送往日本去了,算来在“新华院”待了两个多月,告别干部队就到普通队去了。伪劳工协会把大队长及三个中队长召集在一起宣布说:这次到日本去的组成一个大队,三个中队,很快就要到日本去了,请各队派人跟我去领衣被。我回队就由各班去二人由一班长带队及领衣被,领回一看与以前去日本的人领的一样,由济南乘火车,日军押着把我们这三百来人送到了青岛,第二天乘了一艘运煤的货船就往日本航行了,这也真的要离开中国了。

  在船上,大家的心情是可想而知的,那也只能望岸兴叹了,这只船是货船并不大,船舱装了半舱煤炭。我们就住在船的甲板上的帐棚内,船沿山东半岛东去。很多人都不适应,有的还呕吐,连一点玉米饼子都吃不下,只能躺着不动。以后就看不到岸边,显然船到远海里了。一天遇到了暴风雨,船好像一片树叶,抛上浪尖和浪底,一个日本人大叫:卡赛卡赛...。但大家听不懂,我队里一个人到我跟前说:队长,大风暴快下船舱去,我就指挥大家下了船。到船舱后我问他,你懂日语?他说:懂,原来他在大连开电车的,以后他就当起翻译来了。海浪很大,连船最高的驾驶台都一越而过,真是惊险呀!第二天我们中的一个被折磨死了,往海里一丢就是了,是一中队的这也叫海葬吧。又一天的早上,太阳出来时看到海岸线,大家想这是到了哪里?是日本吗?但船的航行方向不是去靠岸,以太阳判断它是朝南航行的。有人说:可能是朝鲜?我看也可能是的,后来的结果这样的判断是不错的。航行过朝鲜半岛又东行晚上就到了日本下关,因是晚上就没有上岸,第二天早上岸,这就算真正到日本了。

2009/09/04

2.日本での一年余り

 船が着岸し、上陸の命令が出た。しかし日本兵の姿はない。青島のときのように、商人風の日本人管理者たちと白衣を着た医者らしい人々が数人いるだけだ。
 通訳が言った。「みなさん、道中お疲れさまでした。ここで隊・班ごとに服を脱ぎ、布団や持ち物といっしょに縛り蒸気消毒をしてもらいます。終わったら裸のまま並んで、あそこにいる医者たちに薬液を全身に塗ってもらってください」。そうして服を着、自分の持ち物を持ってくると朝食になった。一目見てみな失望した。1人1個の握り飯と冷や水だけだったからだ。
 通訳が言いわたした。「みなさんまた出発しなければなりません。汽車に乗って大阪と新潟へ行きます。すぐ出発です」。汽車が大阪に着くと、第3中隊が降り、大隊長も下車した。私たち1、2中隊はそのまま乗って北に向かい、新潟県新潟市に着き、そこの華工管理所に入れられた。
 こここそ私たちの苦役の現場となる目的地だった。

 私たち1、2中隊が新潟市に到着したのは1944年9月〔*陰暦の勘違いか、陽暦では11月と記録されている〕である。そこの華工管理事務所に寝泊りした。
 その収容所はどんなふうだっただろうか。
 その日、下関から汽車に乗って、朝飯を食べたきり車中では何も食べなかった。夜、新潟華工管理事務所に着いてマントウを1つ食べたが、それが晩飯だった。みなひどく失望した。そこでのそれからの生活も、よくないことを予告していたからだ。
 その収容所には、もともと100人の人々が住んでいた。しかし、生活、労働、現場のいずれも私たちとは違っていて、行き来もほとんどなかった。ほどなくまた100人くらいの人たちがやって来て、私たちと生活をともにした。当初の3中隊が大阪に残ったのだから、彼らがおのずと第3中隊になった。しかし大隊長はいなかった。
 隊ごとに責任をとり、隊員に問題が発生すれば3人の中隊長が相談した。しかも便利なことに、3人の隊長は同じ部屋住まいだった。
 その年9月はとても寒かった。案の定、生活条件は極端に悪く、食料は足らず、着るものも少ない、毎食2両〔*100㌘〕に満たないマントウ1個、綿入れはない、まして病気になっても医者はいないし薬もないという有様だった。
 基本的に、石炭埠頭での船の積み降ろし、貨車の積み降ろし、倉庫積みなど、機械化の進んでいない港で、労働はそのほとんどを人力に頼るほかなく、雨風をしのぐものすらない。このような条件のもとで、「労工」はどのくらい長く生きられるのだろうか。これは、余りに残酷な現実であった。

 新潟華工管理所の様子を述べてみよう。
 そこは日本の当時の建物がみなそうであるように、木造だった。東側にあって西向きでどこか中国の四合院と似ていた。正門の左側に「新潟華工管理事務所」の看板があった。門を入ると左手に管理人たちの事務室があり、右側に警察の守衛室があった。北側に倉庫と炊事室が並ぶ。東側は2階建ての建物で、先住の100人余の「華工」はその2階、北の端に住んでいた。南端は誰も住んでいない。南側に2階建てが並び、私たち3つの中隊はこの2階に住んだ。その西側に2部屋あり、死者の読経室に使われた。東と南の階下は使われていない。周囲に隣接する建物はなかった。

 労働現場について述べよう。
 基本は石炭埠頭で、木材運搬船や貨車が出入りすることもあった。何本かの作業引込み線はみな主に南北に走っていた。東西に引かれているところもあった。船の積み降ろしは人力に頼った。貨車積みには2種類の方法があった。1つはクレーンで高架橋の上のトロッコに積み、トロッコを人力で押して貨車に積み込むやり方である。あと1つは人力でウィンチ〔*手動式巻揚げ機〕に積み貨車積みするやり方だ。船内で運ぶその他の貨物同様、船のウィンチを使って岸壁に貨物を降ろす以外は、貨車積みも倉庫入れもみな人力で完成させていた。これらのやり方を見ても労働はかなり厳しいものだった。これが新潟港の基本的な状況だ。

 私たち捕まえられてきた「労工」はどのように労働し生活したのか。
 私たち3人の隊長は同じ部屋に住んでいたから、問題が発生すれば充分相談することができた。労働者のなかから炊事ができる者を選んで炊事班をつくった。2中隊で日本語ができる者には私たちの通訳をやってもらい、管理人たちとの交渉をうまく運んだ。しかし食事はごく粗末だった。管理事務所がくれる小麦粉は、1日3食の毎食2両に満たないマントウ1個の分だけで、何の副食も油や塩もなかった。ほどなく天気はたいへん寒くなった。さらに新潟地方は雨か雪の天気が多く、零下10-20度にもなった。
 みな中国から着てきた衣服のままで、綿入れの服はない。風雪を防ぐすべもなく港へ労働に出ていった。北風が吹いて、実に耐えがたかった。管理事務所の日本人との交渉は効果がなかった。所長にも1度警告したことがあった。

 この所長は背の低いとても痩せた老人で、連れ歩く通訳は若く、石川といい、日本語でイシカワサン。これは石川先生の意味だった。
 私たちを広場に集めて所長が一言話し、通訳はこう訳した。「みなさん、中国からここまで来て労働されたいへんご苦労さまです。衣食住はいずれも不充分でしょうが、今は戦争中なのですから仕方がありません。みなさん毎日マントウを食べているではありませんか。これはみなさんの生活習慣に従ってのことですし、格別に配慮してのことです」。髭面の老所長は、見るにこれ以上どうする気もないようだった。
 私たち3人の隊長は話し合って1人の隊長が所長に提案した。「何はともあれ、みんなに防寒用の服と靴を支給してください。さもなければ港での労働はとても無理です」。石川さんが通訳してのち所長はしばらく考えて、通訳に二言三言告げた。通訳は言った。「所長はみなさんに防寒用の品物をあげると言っています。しかし今まだ何をあげるかは言えません。対策を考慮するということです」。このようにして交渉は妥結した。しばらくして対策はどうにか考慮されたのだろう。一人一人に、麻袋1枚と日本式の親指とほかの指が分かれたゴム靴〔*地下足袋〕1足が支給された。

 さらにはなはだしいことには、そこには医者はいないし、薬もなかった。病気になっても死を待つよりほかなく、管理事務所と交渉してもどうにもならないのだった。
 私の2中隊からまず初めに死者が出た。
 44年の12月頃、親子2人で連行されてきたうち40数歳くらいの父親(息子は20余歳)が死んだ。私は長い間彼らが親子だとは知らなかった。2人がいつも他の人たちと別行動をとっていたので、訊ねてみてやっと親子だとわかった。その父親は年老いて体を悪くしていた。苦役と生活の悪条件に苦しんでついに死んだ。死んだことがわかると、日本人の僧侶がやってきてお経を読んだ。その葬儀室で私は通訳を通して僧侶にお経をしっかり読んでくれるように頼んだ。なぜなら、息子がそこに同席していたからだった。お経が終わると火葬場に運んで火葬した。
 このような生活を何と表現したらいいのだろう。苦役労働とはいかに苦しいものであったことか。

 私たちが、毎日労働に行ったいくつかの埠頭の現場は次のようなものだった。

 第1にもっとも西側の荷役埠頭。船が着くと人夫が船倉に降りてウィンチに貨物を吊りあげ、岸壁のクレーンが高架に据えてあるトロッコに荷揚げし、人夫がトロッコを押して貨車に荷積みする。この荷役現場で、ある日、現場監督が人夫を殴打する事件が起こった。それは、私が引率していた班だった。突然、人夫が走ってきて私に言った。「隊長、高架線のところで、現場監督が仲間を殴っている」。私はすぐに行ってみた。それはウィンチに貨物を吊りあげている人夫だった。甲板にいる現場監督の指図をよく聞かず事故を起してしまったのだ。
 私はまず現場監督の殴打を制止した。それらの現場監督たちはたいてい中国に行ったことのある者たちで、少しばかり中国語が話せた。私はその現場監督に話した。「あんたははっきり話してくれればそれでいいんだ。あんたが殴ると事態は紛糾する。そうだろう。みんな手を休めて見ているから、作業は停まってしまったじゃないか」。
 現場監督はその顛末を見て言った。「隊長、悪かった。あんたが指図してくれ。私はしばらく他のところに行って看ているから」。「いいだろう。あんたに替わってしばらく指図してみよう」。現場監督は自ら反省して引き下がったのだ。
 私は、すぐさま仲間たちに言った。「現場監督が人を殴るのは良くない。だが、みんな安全には注意しようじゃないか。これはむろん冗談事じゃない。仕事に戻ってくれ」。
 この一件を私は終業後業務日誌に書いたが、これが私の大きな過ちになる。これはあとの話だ。

 第2に、他にいつもの労働現場となったのは、東西岸壁の南岸壁埠頭だ。そこから南の方へ少し行くと、港湾を管理する事務棟があった。
 私たちは、毎日この建物の前で人数を報告し、現場の作業割当てを受取った。ここには鉄道の引き込み線があった。船から石炭を岸壁に降ろし、クレーンで貨車に積む。船内の貨物をウィンチに吊り下げたり、クレーンで荷揚げしたりする作業はみな人手に頼っていた。
 甲板でウィンチを操作するのは全部日本人で、しかも女性が多かった。ここで荷役をする者にも女性がいた。もしかしたら港運会社は彼女らを交替制で使っていたのだろうか。彼女らが中国人と話すことはなく、道ですれ違うときわずかに微笑んで見せるだけだった。私たち隊長に会うと、「チュータイチョウ(日本語)」とささやいて(なぜなら隊長は現場に出かけるとき「中隊長」と書いた腕章をつけていた)、通り過ぎていった。
 私は、日本帝国主義はこんなにも大きな戦争を仕掛け、国家を総動員していたのだから、人手は足らず衣食に困らない者はなく、男手がないから女も仕事に出ていたのだろうと思う。
 戦争はまったく確かに人力、物力の消耗以外の何ものでもなかった。

 第3に、もう1つの労働現場は、東岸壁埠頭だった。岸壁には何本かの線路があり倉庫があった。労働は同じで、船から降ろし、貨車に積み、倉庫に入れる苦役である。船が運んでくるのは大方木材、板材、紙ロール、それに木箱に入って中身のわからないものなどだった。太巻きの巻紙を積むときだけクレーンを使うが、その他のものはみな手で押し、揚げ、積み、引いた。どれもかなりの労力を要した。
 何人かの監督とはいっしょに働くうち気楽な仲になった。あるとき人夫が積み上げたベニヤ板のような木材が、きちんと積まれずメチャクチャになったが、その日は幸い私の引率日だった。監督が言った。「隊長、これじゃだめじゃないか」。
 私は言い返した。「監督さん、今回はこれでいいじゃありませんか。この次に揃えればいいんですよ」。彼は見るからにあわてて言った。「隊長、だめだ、だめだ」。彼は「だめだ」をいくつも連発した。
 「上部の命令で、この板材は軍用だからいい加減には扱えない」。「こんなベニヤ板、どんな軍用にするんですか」。
 彼はちょっとためらいながら小声で言った。「これで飛行機を造るんだ。傷つけたら責任を負いようがない」。「はい、はい、みんなにうまく積み上げるように言えばいいんですね」。彼も笑った。
 この埠頭の荷役がもっとも骨が折れた。食うものはなく、暖かい衣服もない者たちがこのような重労働をしなければならないとは、いかに苛酷なものであったことか。

 そんな条件のもとで、1つ話しておくべきことがある。
 私たちの昼飯を食べる場所のことだ。マントウ1個の食事は炊事班が運んできた。
 線路脇に小屋が1棟あって、港運会社が私たちにそこで食事をさせた。そこには毎日いつも50歳くらいの婦人が詰めていた。小さなかまどでお湯を沸かし、人に接するときの日本人女性の特徴で、物腰がとても礼儀正しかった。私たち苦役労働者に昼飯時しばらく休ませてくれ、熱いお湯を飲ませてくれて、風雨に濡れた衣服をかまどで乾かしてくれた。だからみんな彼女を尊敬していた。
 1945年の元旦、その日も引率に出かけた。礼儀として彼女に新年のあいさつをしなければと思い、出勤前に日本語を一言学んで行った。「新年オメデトウゴザイマス」。「新年好」の意味だ。彼女も言った。「アリガトウ。新年オメデトウゴザイマス」。「謝謝。新年好」を意味する。彼女は日本の習慣で角度90度のお辞儀をした。
 私は新潟に44年9月から45年3月までいたが、その聞この女性の態度はいつも変わらなかった。その他の隊長や労働者に対しても同じように接した。尊敬に値する女性であった。

 1945年3月のある日、私が現場で引率しているとき、突然2人の警官が現れた。
 3中隊長もいっしょだった。彼らは私の手荷物を持っている。どうしたことかわからない。
 1人の警官が言った。「(3中隊長を指差し)荷物は奴にわたせ。お前は警察署に行くんだ」(未熟な中国語)。私は腕章と麻袋の外套を3中隊長にわたした。私たち2人は無言のまましばし顔を見合わせた。私は何ごとか起こったにちがいないと思った。
 その2人の警官に新潟市警察署〔*水上警察署か〕に連れて行かれた。すぐ1室に放り込まれ、間もなく尋問が始まった。
 「お前は鄭光遠を知っているか」(中国語が上手い)。私は、鄭光遠を知らなければ何ごとか起きるのかと思案し、すぐさま答えた。「そんな人は知らない」。
 2人の警官は大振りに手をたたいて横長の腰掛けを1脚もってきた。私をその上に仰向けに寝かせ縛りつけて訊ねた。「知っているだろう。認めれば許してやろう」。「知らない」。
 彼は手を一振りして、1人が私を動かないように押さえ、もう1人がやかんの水を口と鼻から注ぎ込んだ。息ができない。
 私は最悪の事態を考慮し、何も言うまいと心に決めた。3人の愚昧な警官はもはや何も訊ねることなく私を監房に監禁した。
 3日目、同じ2人の警官に護衛されて新潟市を出発した。どこへ連れて行かれるとも私にはわからない。

 私は2人の警官に警護され、自分の手荷物をもって汽車に乗った。汽車は南に向かって発車した。ある町に着いて汽車を降り、車に乗り換えた。街路の標識を見ると広島市だった。
 しかし市内には停まらず、車はさらに郊外へと走った。山道をしばらく走ってある場所に着いた。門を見てそこが「加計警察署」と知った。すぐ監房に押し込まれた。しかし、長い間監禁されたまま尋問は一切なかった。
 日本の警察にどんな目論みがあるのかはわからない。だが私は鄭光遠が広島のどこかにいるのだと断定した。

 ついにある日、加計署のあの2人の、新潟にも来た愚昧な警官が、今度は通訳1人を同席させて尋問を再開した。「鄭光遠を知らないか」と問う。
 「新潟で話したとおりあんた方の言う鄭光遠は知らない」と答える。
 「お前はなぜ日本に不満があり恨みがあるのか」。
 「あんた方は、そもそもの始まりを知らないのか。いとも簡単な話で、日本人も中国人もはっきりわかっているじゃないか。私たち強制連行されてきた『労工』は、他の国だって安心して生活できる状態ではないが、日本ときたら食うものも着るものもなく、とんでもない現実なんだ。それでも満足しろというのか」。
 警官は険悪な形相になって怒鳴った。「バガヤロウダナ」。通訳が「お前はバカだって怒ってるよ」と言った。
 「お前たちは働きに来たのではなく、中国政府の命令で日本を破壊しに来たんじゃないのか。まじめに答えろ」。
 「今言ったじゃないか。あんた方の軍隊が中国から私たちを強制連行してきたんだ。中国政府が派遣してよこしたんじゃないよ。明白な事実じゃないか」。
 警官は私を床に押し倒して跪かせ、膝に棒を差し込んで2人が両端を転がしながら訊く。「認めるか認めないか」。すると私の両脚は折れたように辛くなった。
 「知らないものは知らない」と私は言った。
 彼らはもう何も訊こうとせずまた私を監房に押し込んだ。それからは長い間尋問はなかった。

 私は考えた。加計のこの小さな警察署は辺鄙な山の中にあるというのに、今やいつも空襲警報が鳴っている。警報が聞こえるだけで、彼らがどんな防空行動をとっているのかは聞き取れない。そうなると戦争はすでに日本の国土に上陸したのだ。実に面白いことになったじゃないか。だが日本にとってはこのこと自体、亡国を招く愚かしさと言うべきだろう。

 ある日、別の警官がまた私を連れ出した。そこは彼らの事務所の一室だった。机のわきにサーベルを腰に差した警察官吏らしき男が座っていた。彼は私を机の前に立たせ、私を連れてきた男に出て行くように合図した。私はとっさに彼は何をしようとしているのか考えた。尋問にはちがいなかったが、どうしてこんなやり方をするのか。通訳は使わず、部下を同席させもしない。彼の表情はいたって気楽に見える。私が思案をめぐらせていると、彼は口を開いた。
 「高清珍、お前はどうしても苦しい目に遭いたいのか。お前は今日本にいるのだから、日本の法律を遵守しなければならない。もしお前がみな認めたら、私はすぐにお前に腹一杯食わしてやる。どうだ、高清珍」。
 私はこの警官は中国語がなかなか上手いと思った。私はただちに答えた。
 「警察官さん、あんたのお気持ちはわかりました。私たち強制連行されてきた『労工』は未だかつて腹一杯食ったことがない。私は腹一杯飯が食えるというなら、あんたに嘘の供述をでっちあげてもいい。だが私にはそうはできないんだ。警察官さんにだって何もいいことはないだろう。それはあんたへの欺瞞になる。私にどうしてそんなことができるものか。あんたの言われる法律に関していえば、私は日本の法律を見たことがない。しかし、私は拷問を加えて供述を迫ることが、日本の法律にも適合しはしないと断定できる」。
 警察官が言った。
 「高清珍、お前は回り道することはないんだ。私は率直に言おうじゃないか。鄭光遠、賈登春、左保貴らはみな認めたんだ。しかもはっきりと話した。お前たちは中国の新華院にいるときしっかり相談した。食堂でいっしょに会議をしている。中国政府の指示を受けて日本に破壊にやって来た。そうだろう。お前が認めなければ、前例に倣い法律に従って処罰するまでだ。高清珍、どうなんだ」。
 「それならあんた方の好きなようにするがいい」。私がこう言うと、男は激怒し凄まじい剣幕ですぐさま罵倒した。
 「泣きを見るぞ。バガヤロウダ」。彼は私に手を机の上に置かせ、サーベルを抜いてねらいをつけた。中指と人差し指の先端から血が出たが、骨を傷つけるまでにはいたらなかった。彼は歯ぎしりして言った。「死にたきゃ死ぬがいい」。そして警官を呼びまた監房に閉じこめた。それから長い間尋問はなかった。
 この日私は賈登春と左保貴の名前を聞いたが、私は会ったこともなくまったく知らない。日本人警官が話したそんなことがあるとすれば、それも鄭光遠がでたらめに供述したのだ。

 ある日、例の2人の警官が私の手何物を持って、連れ出しに来た。今度はどこへ連れていかれるのだろう。私は彼らとともに車に乗った。車はもと来た道を走り、しばらく走って十字路のところで停まった。間もなくもう1台車が近づいてきて、私たちはその車に乗り換えた。
 乗ってみると車の中には鄭光遠がいた。ほかの2人は賈登春と左保貴にちがいない。病状の重そうな男が鄭光遠を罵っている。
 「鄭光速、お前って奴は何てこった。どんな駄ぼらを吹いたんだ。みんなを巻き添えにしてさんざん苦しめて…」。
 警官の1人がうるさくするなと彼を黙らせた。もう1人の男は罵ってはいなかったが、鄭光遠を怒りの目で見やっているのがわかった。私はそのとき彼ら誰とも話したくなかった。それより、日本人が私たちをどこに連れていこうとしているのか考えていた。
 車は広島市内に入りある建物の中庭で停まった。そこが広島裁判所であった。私の広島・加計警察署での生活はこれで終わった。

 私たち4人は車から降ろされて、舞台のような形のホールに連れていかれた。日本人がみな手配を終えてあるようだった。壇上には机があり、後方に四人の男が座っていた。中間の1人は中国の芝居衣装のような制服を着ていた。両側に座っているのは背広姿だった。
 私たち4人は下方に立たされた。背後には警官がいる。当然ながら、それは法廷であった。彼らは最後に判決を下すのだろう。加計警察署のあの警察官が言った通り、認めなければ前例に倣って日本の法律に従い、刑罰を科すのだ。
 壇上の左側の日本人が起訴状を読みあげた。通訳が訳し、制服を着た日本人が判決を言いわたした。
 「5年の刑に処する。罪を認めた者には1年の減刑により4年の刑とする」。
 法衣の男が手に私の新潟にいたときのノート〔*業務日誌〕を持ってしばらく話し、通訳が言った。
 「高清珍がノートに書いてある記事は、お前が日本に不満をもっていることを証明している」。
 広島地方裁判所で演じられた芝居はこうして閉幕した。

 私と鄭光遠、賈登春は、広島刑務所に収監された。左保貴は病が重く、どこへ連れて行かれたかはわからない。
 私たちがその刑務所の門に着いて見上げると、横書きに「中国監獄」の4文字があった。どうして日本にも「中国監獄」があるのか、私はほんとうに不思議に思った。
 刑務所の看守は私たちに自分の服を脱がせ、一人一人に青いチイパオ〔*女子のワンピースの中国服〕式の囚人服を支給した。日本の建物は当時みな木造だった。その刑務所も高くて大きい塀を除けば、内部の家屋は木造になっていた。ロビーを入ると東、南、西に放射線状に監房が並んでいる。
 私たち3人はもっとも西側の並びの1室に収監された。彼ら2人はそっぽを向き合っていたから、私が先に切りだした。
 「鄭さん、私たちは済南で劉功臣を通して知合って名前だけはわかるね。この人の名前はわからないが」。彼はすぐに「私は賈登春だ」と答え、「別の場所に監禁されたあの人が左保貴だよ」と言った。彼は病状が重そうだった。実に気の毒な話だ。
 その日初めて私たち3人はほんとうの知り合いになり、しかもそこで4年の刑に服することになった。何と日本に長くいることになったことか。

 刑務所の状況は次のようなものだった。

(1)日本の広島のその刑務所がなぜ「中国監獄」と呼ばれるのか。のちにわかったことだが、広島の地域一帯が中国地方と呼ばれ、そこにある刑務所だからということだ。

(2)監房では、毎日2回握り飯1個の食事をするときと夜寝るとき、便所に立つとき以外は、座っていられた。時間の概念はなく、月日や時間はわからない。ただ空が明るくなり暗くなればそれが1日だった。

(3)監房に座って何もしないでいるわけにはいかず、やはり労働に出かけなければならなかった。ある日、私たちは看守に伴われて大部屋に行った。その作業場にはいろいろな作業をする者がいた。銃を修理したり作ったりしている日本人受刑者もいた。私たちは封筒張りを割り当てられ、人の貼るのを見て貼った。紙は裁断してあり、折り畳み、糊付けし、平らに伸ばし、乾かすが、へらは竹片で、最後に一枚一枚重ねて束ねる。私たちはそれから毎日毎日この作業をしに出かけた。

(4)この時期、広島には毎日空襲があって、飛行機の爆音、地上で炸裂する爆弾の音に高射砲までがうなり、まことに騒々しかった。だが空中戦の音は聞こえてこない。それは日本帝国主義がもはやその力をなくしていることを意味した。空襲が過ぎ去るとみんなは〔*防空壕から〕作業場に戻り自分の作業をした。

 1945年8月6日、この日は私の終生忘れられない一日となった。むろん日付はのちに知った。
 その日看守は作業に呼びに来ず、私たちは房内で座っていた。飛行機の爆音は聞こえないし空襲警報もなく、看守が避難をさせに来ることもなかった。
 獄窓から青空が見えたから、たぶん8時か9時頃であったろう、窓外に突然雨が降るときの稲妻のような光が走った。大きな音は聞こえない。つづいて房内が暗くなった。手を伸ばしても指が見えない。監房も倒れた。私たちは空襲にちがいないと思った。監房の倒壊で入口が開いた。暗がりを手探りして防空壕の方へ這い出した。防空壕の入口にたどり着いたころ空が明るくなった。
 私たちは互いに見合うと、顔も手も炭坑から出てきた坑夫のように黒くなっていた。

 地表は一面に黒い。監房はみな倒壊しメチャメチャになった。刑務所の敷地内の樹木は霜に打たれたように枯れはてた。獄内に出火したところがあり消火していたが、刑務所の塀垣の外は真っ黒な煙があがり火炎が天を焦がしていた。塀垣だけは倒れていない。
 人々は当時空襲しか知らず、どんな武器の襲撃であるかわからない。刑務所の看守もあの尊大な警官もみなどこかへ行ってしまった。昼が過ぎてずい分経ったが彼らの人影は見あたらない。私たちは刑務所の外で畑に転がっている南瓜を見つけ、生でかじって飢えをしのいだ。
 誰も管理する者がいないから、私たち3人の中国人は好奇心に駆られ、塀の外の様子を見ようと刑務所の門を出て、右手の方へ川に沿った道を200㍍くらい歩いて行った。
 辺りは鎮火していたが家屋はみな消滅し、まったくの廃墟と化していた。さらに死体が道端に無残な姿をさらしている。遠方をはるか望み見ると焼け残った高い壁〔*原爆ドーム〕があった。広島の町は灰燼に帰した。

 私たち3人はまた刑務所に戻った。どこも出て行けるところがないからだ。夜になって看守たちは姿を現わした。彼らがどこから出現したのかはわからない。その日は倒壊した房内に寝た。翌日、広島刑務所から山口県の一地方に移動させられた。

 私たち10数人は警官に警護されて広島刑務所を出た。門を出て右手の方へ川に沿った道を歩いて行った。私たちをどこへ連れて行こうというのか。被爆当日見た情景がまた目の前に広がった。
 しばらく行くと左側に橋があって、橋は完全な形で残っていた。川をわたって曲がりまっすぐ行くと、もはや爆撃の痕跡が見られないところまでやって来たが、どこへ連れて行かれるのか途上ではまだわからない。
 午後ある場所に着いた。山口県のどこかだった。収監する場所も牛小屋のような粗末なものだった。ここにだいたい20日間余り監禁された。
 私はここで一種異様な光景を見かけた。ある日看守たちが銃器を縛って、しまいこむようにどこかへもって行った。私たちは日本人がなぜそんなことをするのか不思議に思って見ていた。明らかに根拠があったのだ。

 ある日、2人の警官が警護して、私たち3人の中国人と1人の朝鮮人を連れ出した。護送されて来たときと同じ道を歩かされているようだった。案の定広島へ戻された。
 午後広島刑務所の正門に着いた。彼らは準備万端整えているように見えた。
 門に入ると、看守は私たちを迎え入れたときと同様に門口に立って言いわたした。
 「戦争は終わり平和になった。あんた方は帰りなさい。これはあんた方の持ちものだ。囚人服を着替えなさい」。
 私たちは自分の服を着て手荷物を受取り、立ち去ろうとした。
 看守の1人が言った。「あんた方は今後また日本に来るかな」。
 私は即座に答えた。「また来る機会はあるだろう」。
 彼は当惑気に言った。「日本は良くない」。
 そして自分たちだけで話し出した。
 「日本語で言ったのに意味はわかるんだな。それにしても連中どうやって帰るんだろう」。
 もう1人が言う。「連中には連中のやり方があるのさ」。
 私たち4人は広島駅に向かって歩いた。日本での1年間の強制労働、監獄生活はこの日終了した。

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◆ 原    文 ◆
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2.我在日本一年来的情况

  在船靠岸后,大家就奉命上岸了。但是不见了那些日本兵,只有在青岛时像个商人模样的日本管理人员,还有一些穿白衣的像医务人员一样的人。翻译说:大家一路辛苦了,现在就请各队各班把衣服脱下连被子和东西捆在一起要蒸气消毒,完后大家站好队赤裸身体那些医务人员拿药水全身抹了个遍。这些搞完之后穿上衣服拿了自己的东西就吃早餐了,一看也使大家很失望,每人一个饭团,喝了些冷水而已。翻译宣布说:大家又要起程了,坐火车往大阪和新泻去,就出发了。火车到大阪后,我们中的第三队下了车,那个大队长也下车了。我们一、二中队继续乘车北行,就到了日本的新泻县的新泻市,驻进了该市的华工管理所,这就是我们作苦工的目的地了。

  我们这一、二队到达新泻市时是一九四四年的九月份,住在该市华工管理所,该所情况又如何呢?那天从下关乘火车只算吃早餐,车上未吃东西,晚上到新泻华工管理所,吃了一个馒头就算晚餐了,使人相当失望,预示着以后该所生活也不好。该所原来就有一百人,但他们生活、工作地点都与我们不同,也很少来往。没有多久又来了一百来人,就跟我们生活在一起了,原来的三队留在大阪他们自然就是第三队了。但是没有大队长,各队队员遇事三个队长商量,不过也方便,三个队长住一间房子内。该年九月份天气就很冷了,不出所料生活条件极差,吃不饱,穿不暖,每餐一个馒头不足二两,没有棉衣穿,更甚者有了病也无医生也无药。在一个基本是煤炭码头上装船卸船,装车卸车,堆仓库等港口机械化也不高,基本要劳力的而且风雨无阻。在这样的条件劳工能活多久?这是一个很残酷的现实。

  新泻市这个华工管理情况:该所与日本当时的一切建筑一样是木结构的,坐东朝西,有点像中国的四合院形式。大门左边牌子“新泻华工管理所”。一进门左手边是该所管理人员办公室,右边是日本警察门卫的房子。北边一排房是仓库和厨房。东边是二层楼房,原来那一百来华工就在此楼上住北头,南头无人住,南边一排楼房二层,我们三个队就住在楼上,此楼西头有二间,是死者诵经室用的,东边和南边楼下都没有用,该所周围是没有邻居的,这是华工管理所的情况了。

  我们做工的工地情况:它基本上是一个煤炭港口码头,有运木材的舱船和火车到达,而且作业岸线几条基本都是南北岸线,也有东西岸线的,当时卸船装包是人工,装火车有二种形式:一是用抓斗机装高架桥上的矿车再人工推车去装火车,二是人工装卷扬装火车,如船上运的是其他货物,除用船上吊杆把东西吊上岸外装火车堆仓库都由人工来完成。就那些工种而看,作起来还是相艰苦的。这就是新泻港的基本情况。

  我们这些被抓来的劳工是如何做工和生活的呢?我们三个队长住在一间房以便有事好商量,从工人中选了会搞炊事的组成炊事班,由我二队会讲日语的当了我们的翻译,有事好与日本管理人员打交道。但是伙食是很简单的,所方给的面粉一日三餐,每餐只一个不足二两的馒头,没有什么菜和油盐。不久天气也很冷了,新泻那个地方雨雪天气又多,都零下一、二十度了,大家仍然穿着从中国来时穿的衣服,没有棉衣穿。风雪无阻去港做工,那北风吹得难受极了。与管理所的日本人交涉无效,一次把所长也惊动了。

  这个所长是一个很瘦的小老头,带的翻译是个年轻人,叫石川,日语:“以溪卡瓦桑”即石川先生。把我们集合在院中讲了一次日语翻译是这样翻的:大家从中国来在这里做工,是很苦的,吃的、住的、穿的都很不好,但这是战争年代没有办法的呀,大家不是每天都有馒头吃吗?这还是照顾大家生活习惯的,也可以说是特殊照顾的。所长这个小胡子老头看样子就要结束了。我们三个队长一合议由一队长向所长提示:无论如何也得给大家解决御寒的衣服和鞋子才行呀?否则很难在港口把工作好。石川先生翻译后所长考虑了一下与翻译讲了几句,翻译说:所长说给大家解决一下御寒的物品,但现在还不能说给什么,想办法就是了。就这样结束了。过了些天还是想了点办法,每人发了一条麻袋和一双日本式大母指与其他指分开的胶鞋。

更甚者该所没有医生也没有药。有了病只能等死与所方交涉也没有用。我那二队死亡首先开始,大约是四四年的十二月份是父子两一起被抓来的,其中父亲年纪约四十多岁,儿子约二十来岁。我很久才知道他们是父子两的,因为他们二个的行动总是与其他人不同的,问他们才知道是父子两。其中父亲年纪大身体不好,这么一折磨就去世了,还请了日本和尚来念经,在那个葬仪房通过翻译我叫和尚多念经,因他儿还在这里,完后就到火葬场火化了,这叫什么生活,苦工真苦呀!

  我们常去做工的几个码头地点:

  一是最西边的装卸码头,船到之后工人要下船舱内装吊包,再岸上的装载机装高架上矿车,由工人推矿车装火车。就在这个做工地点有一天发生一起监工打人事件,那是我带班,忽然一个工人跑来说,队长,高架车那边一个日本监工打我们的人。我立即去了,原来是装吊包的工人没有听清楚,甲板上日本监工的指挥出了点事故。我立即制止了监工打人的行动,那些监工大都去过中国,会讲些中国话。

  我给那个监工讲:你事情讲清楚就行了,你越打人事情就越做不好,你说呢?大家都在看着,工停业了。日本监工一看这个场面,就说:队长,对不起,你来指挥一下吧!我到别的地方看看去,我说:那好吧,替你指挥一下,看得出这是监工自找台阶下。我立即与大家讲:日本监工打人不行,但是大家要注意安全呀!这可不是闹着玩的,大家作事去吧。这件事工后我记在笔记本上而且成了我一大罪状,这是后话。

  二是另一个经常劳动的工地是东西岸的南岸码头,往南远一点就是他们管理港口的办公楼了,我们天天在此楼前报到人数和接受分配工地的。这里有铁路线,船上卸煤到岸口,再由卷扬机装火车,装船内的吊包和装卷扬机都要人工来完成。

  在船上开吊机的都是日本人而且女的居多。在此劳动的也还有日本女的,也许港务当局对她们有所交代,她们不与中国人打交道,走路碰面只是一笑而已,碰到我们队长还自语声:“久代久”(日语)即中队长(因为队长去工地都带有袖章上写中队长),就过去了。我想日本帝国主义打这么大的战争,把国家也打光了,没有人也没有吃穿的,男的没有女的上了。战争是人力物力的消耗,这是一点不错的。

  三是再一个做工地点是东岸码头,岸上有几条铁路,有仓库,干的照样是卸船、装车、堆仓库的苦工。船运来的大都木材、木板、纸张以及不知装的什么木箱子,只有那一卷纸堆时用堆码机,其他东西都是人工推、搞、堆、拖还是相当费力的。有些日本监工在一起多了也就随便了。有一次工人在堆运来的三合板等一类木材,码的不整齐,横七竖八的,那天正好是我带班。他说:队长这样不行的,我说:监工先生,这次就算了,下次码整齐就是了。看样子他急了说:队长,不行,不行,他一连说了几个不行的,这是上边命令,这些板材是军用品,不能马马糊糊的。我说:这些三合板能搞什么军用?他犹豫了一下小声说:这些板材是造飞机的,如搞坏了,负不起责任的。我说:好,好,叫大家码好就是了,他也笑了。在这个码头上的劳动可以说最费力气的,叫这些吃不饱,穿不暖的人来搞这样的费体力劳动真够苦的。

  在那样的条件下,值得一提的是我们中午吃饭的地方。吃饭一个馒头是炊事班送来的。在铁道那边有一栋小木屋,是港务局叫我们去那里吃饭的,每天都有一位五十来岁的妇女在那里,用一个小锅炉烧水,待人接物也是日本女子的特性,很有礼貌的。我们这些苦工中午有个地方休息一下,喝点热水,因风雨无阻衣服湿可在锅炉上烤干。所以大家都很尊重她。一九四五年元旦那天也是我带班去的,按礼节也要向她拜个年的,所以出工前学了一句日语:“新年我米替她苟再一马司”,即新年好。她也讲:“阿里亚斗,新年我米替她苟再一马司”。即谢谢,新年好。她还日本习惯九十度鞠躬。我在新泻从四四年的九月至四五年的三月,这位日本妇女都是那样作的,其他队长及工人反映也是一样,是一位值得尊敬的妇女。

  一九四五年三月份的一天,我正在工地带领工人劳动,突然出现两个日本警察,还有三队长,还看他们拿着我的东西,不知怎么回事?其中一个日本警察说:你的交给他的(指三队长),你的警察署去的。(不熟的中国话)我就把袖章、麻袋大衣给了三队长,二人相视一下未讲一句话。我想一定出了什么事?就跟着那两个警察去了新泻市警察署,立即就关押在一个房间,不久就提审了,问:你认识郑光远吗?(中国话讲得不错),我脑子转了一下不知郑光远出了什么事?我立答:不认识这个人。那两警察大打件手,拿来一条长凳,把我脸朝天头下垂绑在凳子上,问;认识吗?承认就免刑。我说;不认识。他一挥手,一个按住我不准动,一个提壶水就口鼻灌水,使人透不过气来。我作了最坏打算决不讲什么。这三个混蛋警察没问出什么就把我进班房去了。第三天仍然由那两个警察押着我离开了新泻市,到什么地方去我也不知道。

  我还是被那两个警察押着带了自己东西上了火车,是往南边方向开的,到了一个城市下火车坐汽车,从街上的招牌看是广岛市,但在市里没有停又开往郊区了,汽车跑了一段山路就到了一个地方,门上一看便知原来是加计警察署。立即关进了一个房间,但是关了很久也没有问一句,不知日本警察在搞什么明堂?但我断定郑光远在广岛一个什么地方!终于有一天加计署那两个混蛋警察其实还是去新泻的那两个,不过加了一个翻译,就又开始审问了。

  问是否认识郑光远?我说:在新泻我就讲了,不认识你们说的郑光远,问;你为什么对日本不满意而恨呢?我说:你们不知从何说起?其实很简单日本人清楚中国人也清楚。如我们被抓来做劳工,把别国搞的民不聊生,日本也没有吃的,穿的,这多现实,还叫我们满意,日本警察一脸凶相得骂人:八各牙鲁的那,翻译说:他骂你是混蛋,问;你们不是来日本做工的,是奉中国政府之命来日本作破坏的,要老实回答。我说:刚才我讲了,是你们军队从中国把我们抓来的而不是中国政府派来的,这不是很清楚吗,日本警察把我按倒在地跪在地上,把棍子压在腿肚上两人来回滚,边滚边问:承认不承认?后来的我这两条腿像断了一样难受。我说:不认识就不认识,他们没问出什么就把我又关进班房去了。此后又很久没有审问,我在想,现在时常有些空袭警报,虽然加计那个小警察署在山旮旯里,只听警报没听到他们有什么行动来防空,由此断定战争打到日本国土上来了,真是大快人心,但在这件事上还要应付这些快亡国的混蛋。

  一天,一个日本警察又把我带出去了,是他们一个办公室的房间。桌子那边坐了一个挎腰刀的日本警察官模样的人,他让我站在他的桌子当头,示意那个带我的人离去。我在迅速思考他要搞什么?审问是肯定的,为什么这样?他不用翻译,不叫别人在场,看他的表情是很随便的样子,我正在思考他开腔说:高清珍你何必自找苦吃呢?现在你是在日本就得按日本的法律办呀!如果你都承认了,我立即叫你吃饱饭,高清珍怎么样?

  我认为这个日本警察中国话讲得还可以,我立即说:警察先生你的情我领了,但我们这些被抓来的劳工,从来都没有吃饱过,我如果为了吃饱一餐饭给你胡骗一套假口供,我不会那样作的,这对警察先生来说没有什么好处,这是对先生的欺骗,我怎么会那样作呢!警官先生你提到上次事,我虽没有看到过日本的法律,但我断定搞酷刑来逼供信,也不付合日本法律的。日本警官说:高清珍你不要兜圈子了,我可以直言告诉你,郑光远、贾登春、左保贵他们都承认了,而且讲得很清楚,你们在中国新华院时就商量好了的,在食堂一边开了会的,是根据中国政府指示来日本搞破坏的,不对吗?你不承认照样依法惩办的,高清珍怎么样?我说:那就按你们的办吧。我这样一说,日本人脑火了,凶像暴露,他立即骂人:哭拉,巴各牙鲁的。他叫我把手放在桌子抽出腰刀,照我手上就是一下,我的中指和二拇指尖都出血只是没有伤骨就是了。他咬牙切齿得说:你的死了死了的。他喊来一警察把又关起来了,以后又有很长时间没有审问。今天知道了贾登春和左保贵,我没有见过他们根本不认识,日本警察讲那些如果有的话也是郑光远乱供的。

  一天又是那两个警察把我带出来,还拿了我的东西。我想他们又要把我带到什么地方去?我跟他两上了一部汽车,走的还是来时的路,走了一段路后在一个十字路口停下了,没多久又来了一部车,我跟日本警察就上了那部车。一上车就看到了郑光远,那两个一定是贾登春和左保贵了。一个病得很重样子在骂郑光远:郑光远你这个混蛋,你胡讲了些什么,把这些人都牵扯进去害人好苦呀...。一个日本警察制止他不要吵,另一个虽然没有骂但可以看得出怒目而视郑光远,我当时不想与他们任何人讲话,看日本人把我们搞到什么地去?汽车开进市区在一个院内停了,这里原来是广岛裁判所,我在广岛加计警察署的那段情况就结束了。

  我们四个被带下汽车走进一个有舞台形状的大厅,看样子日本人都安排好了。台上桌子后面坐看四人,中间一个人穿戴像是中国戏服一样,两边坐的人都是穿的西装便服。我们四个就站在下边,背后有日本警察,这当然是法庭,他们要最后判决了,加计警察署那个警官讲得不错,不承认照样按日本法律判你的刑,台上左边那个日本人读了所起诉书...。翻译也译了,就是说过的那套,中间日本人就宣判了:应判刑五年,承认的好减刑一年即判刑四年。就中间坐的穿法衣的人手拿我在新泻的笔记本,讲了一阵后翻译说:高清珍在笔记本上记的可以证明你对日本不满意,在日本广岛地方裁判所这出戏就算演完了。

  我和郑光远、贾登春由日本警察押送到了广岛监狱,左保贵病重不知到什么地方去了。我们一到那个监狱门口抬头一看,上写横书“中国监狱”四个大字,我心想真奇,怎么日本国也有“中国监狱”。狱方警察就叫我们把自己的衣服脱下,每人给了一件兰色旗袍式牢服,日本的建筑当时都是木结构的。这个监狱除高大围墙外内部的房子也是木结构的。走进牢房大厅,朝东、南、西式的股钻心牢房。我们三个被关在最西边一排子的一间。看样子他们两个不想讲话就我先讲话了,老郑我们在济南认识的是通过刘勋臣才知姓名的,这一位我就不知姓名了!他立刻说:我叫贾登春,这样说:那一个关在别的地方的人就叫左保贵了,看样子他病得不轻,真叫人寒心呀!今天我们三个才算真正认识了,而且要在这里坐四年班房,可说来日方长呀!

  我们在监狱的情况:一.日本广岛那监狱为什么叫“中国监狱”?这是后来才知道的,因为广岛的那一个地方叫中国,监狱就在那个地方所以就叫成“中国监狱”了。二.在牢房内除了吃饭每天二餐每餐一个饭团,晚上睡觉解手外都只能坐着,牢房内没有时间概念,不知月日更不知几时了,只知道天亮天黑了就是一天。三.坐牢房也不能闲着还得去做工,一天我们被一个警察带去了,进了一个大房间看来那个工作间里干什么的都有,我们被安排作信封,看别人如何作我们就如何作了。信封纸都是裁好了的,折叠,胶好,刮平,刮子就是一块竹片,最后一扎一扎得捆起来就行了。从此以后我们天天去做这样的工。四.此时广岛几乎天天有空袭,飞机的轰鸣,地面炸弹爆炸声,高射炮声也真够热闹的,但是没有看到和听到空战声,这就说明日本帝国主义已经无能为力了,空袭过后大家回车间作自己的事。

  一九四五年八月六日,是我终生难忘的一天。这个八月六日是后来知道的,因为监狱内过日子是没有时间概念的,只知天黑天亮而不知几月几日,更不知几时了。那狱方也没有叫人作工,我们就坐在房内,也没有听到飞机的轰鸣声,也没有空袭警报,狱方也没有叫人们防空。从窗子看是晴天,大约八、九点钟的时候,窗外忽然像下雨时的闪电一样的光亮了一下,也没有听到大的响声,随即房内就黑了下来,申手不见五指,房子也倒了。我们意识这一定空袭,房倒门自开,摸黑朝防空洞的地方几乎是爬去的,刚到防空洞口,黑暗已过去天就就亮了。我们相互对视都像从煤矿里边出来的人样,脸手都是黑的,当时监狱情况:地皮都是一层黑,房子都倒了,乱七八糟的,监狱的树木像打了霜似的死了,监狱内有的地方着了点火人们把它搞息了,但监狱围墙外就浓烟滚滚火光冲天了,只有监狱围墙没有倒,当时大家只知道是空袭,也不知道是什么武器的袭击。也没有看到狱方管理人和那不可一世的警察都到哪里去了。中午过后很久也没有看到他们的人影,大家肚子饿了就去摘南瓜吃,没有人管,我们三人中国人加上当时的好奇心想知道围墙外的情况,就走出了监狱大门往右边沿河边马路走去,看了看大约走了二百米,大火已过所有房屋都不存在了,成了一片废墟还有的人死在马路边也真惨。朝前方远处望去,有一个高残的墙壁。广岛这个城市化为灰烬了。我们三个又返回监狱,因为没有什么地方可出的。那当天的晚边狱方的人员都出来了,也不知他们从什么地方冒出来的?当天晚上大家就睡在倒蹋的房子内。第二天就离开广岛监狱到山口县一个什么地方去了。

  广岛原子弹爆炸的第二天,我们十来个被警察押出广岛监狱,出门朝右手沿河马路走去。也不知把我们又要送何方?又看了一遍当天看过的情况。走了一段路后,朝左边过了河上的桥,桥还完整存在。过河后就一直转走去了,已经走到没有炸的痕迹了,他们要把这些人送到何方?在路上还不能知道。下午到了一个地方,是山口县的一个地方,关人的地方也很简单像关牛的栅栏一样。大约在这里关了二十多天,我看到一种特殊情况。一天该监狱方的人员把枪枝都捆了起来像收藏一样,拿走不知藏到什么地方去了,在我们看来很奇怪日本人为什么这样作?一定是有原因的。一天他们派了二个警察,把我们三个中国人和一个朝鲜人押着上路了,看得出来是我们被押来时的路。我们可能又要押回广岛。结果不错,下午就到了广岛监狱大门口。看来他们是准备好的,过大门都未进去,广岛狱方就像迎接我们一样就在大门口,就向我们宣布了:现在不打仗和平了,你们回去吧。这是你们的东西,把牢服换下来。我们就穿上自己的衣服,丢掉了牢服,拿起自己的东西准备走了。一个日本警察说:以后你们还到不到日本来?我立答:以后有可能还会来的。他无可奈何地样子说:日本不好的,还听他们之间说:讲的日语但意思还是听得懂的,即他们如何回去呢?另一个说:他们有办法的。我们四个人就朝广岛火车站走去,在日本的一年做劳工,坐牢房到今天算是结束了。 

2009/09/03

3.どのようにして帰国したか

 私たちは広島を出発した。中国人3人、朝鮮人1人はともに広島駅に向かって歩き、再び広島の被爆の惨状を目のあたりにした。しばらく歩くと広島駅に着いた。駅は郊外の山のそばにあり、駅の建物はまだ残っていて、原爆の威力がここまでは達していないことを物語っていた。待合室で待っているとまもなく汽車が駅に入ってきた。私たちは、「来るとき下関から上陸したから、今回帰国するのもやっぱり下関から出発しよう」と単純に話し合った。広島駅はごった返していて、無秩序で、まるで何の管理もされていないようだった。汽車の切符を買う人もなく、日本軍国主義が降伏したのち、国中が無政府状態になっていることをうかがわせた。私たち4人は汽車に乗り、席を見つけて座った。汽車には大勢の人が乗っていて、ほぼ満員だった。汽車はすぐ発車した。さらば、壊滅した広島。

 私たち3人は汽車の中で、下関に着いてからどうするかを少し相談した。私は日本の現地機関は、無政府状態のもとでは何もできっこないと思った。もし連合軍が下関に上陸していたら、彼らを訪ねた方がまだましだろう。汽車には意外にも友好的な日本人も乗り合わせ、なかには中国語を話せる人もいた。
 「あなた方はいつ日本に来たのですか」。私たちが「1944年貴国の軍隊に連行され強制労働させられていたのです」と答えると、彼はびっくりして言った。「ご苦労されましたね。日本はあなた方に申し訳ないことをしました」。「日本軍国主義者は他国に災難をもたらし、日本をも災難に陥れました。広島の惨状をご覧なさい」。彼らも黙ってうなずいた。彼らの戸惑いに話の接ぎ穂を失った。
 汽車がしばらく走り、ある駅で私たちといっしょに服役した朝鮮人、名前は思い出せないが、この被災者仲間が下車した。彼は「中国の友人、僕はここでまだ用があるので降ります。無事にお国に帰れますように、さようなら」と言った。さようなら、朝鮮の友人。ここで手を振り別れを告げた。

 汽車は運行をつづけついに下関に到着した。汽車を降りて大通りに出ると、運良くパトロール中のアメリカ兵に出会った。事情を説明したが、彼らは当然私たちの話を理解できなかった。しかし私たちが中国人であると見て、そのうちの1人が私たちを彼らの司令部に連れて行った。
 私たちはアメリカ軍将校に会い事情を説明した。日本帝国主義につかまり日本に連行され強制労働をさせられたこと、日本が降伏した今早く国に帰りたいこと、もし中国に行く船があれば便乗させて欲しいことである。
 アメリカ軍将校は通訳と少し話した後、通訳は「今中国行きの船はない。まず朝鮮にわたり、それから国に帰る方法を考えた方が簡単だ。今たくさんの朝鮮人罹災者が帰国しようとしていて、毎日船の行き来があるからだ。どうですか」。
 私たち3人はちょっと相談して応諾した。朝鮮まで行きさえすれば、2本の足で何とか中国までたどりつけるではないか。それですぐに同意したのだ。アメリカ軍将校はその通訳に私たちを下関の埠頭まで送らせた。この通訳はたぶん朝鮮人で、英語、中国語、朝鮮語、もちろん日本語を話せた。
   彼は埠頭にいる朝鮮人罹災者の責任者としばらく朝鮮語で話してから、私たちに言った。「3人の中国人友人たち、今晩この朝鮮の友人が手続きして、あなたたちを朝鮮人罹災者といっしょに朝鮮行きの船に乗せてくれます。道中ご無事で、さようなら」。「ありがとうございます。さようなら」。その夜の夕食も朝鮮の友人が手配してくれ、食後すぐ乗船した。それは機帆船で、風があると帆を張り、風がなければエンジンが動いた。太陽が沈むと船は出航した。さようなら、残酷に虐待した日本。

 この航海は順調だった。日本の下関から朝鮮の釜山までのこの海峡は対馬海峡と呼ばれ、つまり途中に対馬島があることから名づけられた。この島は日本に所属している。船は対馬島までで航路の約半分に達し、到着は夜12時ごろになった。その島で1時間余り休憩し、再び出航した。順風満帆で、船は何の機械も稼働させなくとも順調に進み、太陽が顔を出すころ朝鮮半島最南端の釜山市に到着した。

 船が釜山に着岸すると、老若男女すべての朝鮮人がそれぞれ四方に散らばって行った。私たちはどうするか、3人で話し合った。
  1つめは連合軍の機関を訪ねる、2つめは我ら中国の領事館があるかないか。通りに出て捜してみて、どちらか出合った方に帰国の手伝いを頼んでみよう、ということになった。釜山の街ではアメリカ兵には会わなかった。それで通りがかりの朝鮮人に訊ねた。「釜山市に中国領事館はありますか」。その人はとても親切に教えてくれた。「あるよ。ここからそう遠くない。まっすぐ行って右側の横町を入っていくとそこだよ」。私たちはお礼を言って彼の言う通りに歩くと、間違いなく、門には看板がかかり「中国領事館」と書かれていた。

 私たちは中に入り領事館の人に話した。「日本から帰国の途中朝鮮を経由しています。食事や汽車の手配を援助してください」。「わかりました。これから手はずしてあなた方をレストランに連れて行きましょう。その後駅までお送りします」。彼は私たち3人を連れて華僑のレストランに行き、食事ののち駅に案内してくれた。ちょうど北に向かう汽車があり、彼は「お乗りなさい、ソウルまで行ったらそこでまた帰国の方法を考えるといい。さようなら、友人たち」。「領事館のおもてなしに感謝します。さようなら」。

 当時朝鮮は、南半分はアメリカ軍が、北半分はソ連が占領していた。ソウルに着いて汽車は停車した。3人は下車して、ソウルに中国大使館はあるだろうか、と話し合った。そしてすぐに通りに出て人に訊きながら捜した。ソウルの大通りで目にした光景はとてもにぎやかだった。商店の店先には中国、ロシア、イギリス、アメリカ、フランスの国旗と5ヵ国の指導者の肖像が掲げられていた。南朝鮮(今の韓国)の指導者李成晩の肖像もわかった。
 通りで親切な2人連れに出会った。私たちの事情を知ると「中国罹災民なんですね、中国罹災者を受入れているのは、中国華僑ソウル総商会34」です。案内しましょう」。私たちが同意すると、2人は華僑総商会に連れて行ってくれた。総商会は親切に私たちを迎え入れ、2人の朝鮮人にお礼を言ってくれた。

 華僑総商会の人は私たちに説明した。「今、帰国は無理です。ソウル近くには、あの『38度線』・ソ連とアメリカの軍事境界線があり、その両側は100メートル以上にわたって緩衝地帯になっています。誰も管理していないから少人数で行くと危険です。しばらくお待ちなさい。人が集まってからいっしょに帰国するのがいいでしょう」。私たちが「お任せします」と答えると、泊まる場所を手配し、米と鍋を用意して自炊できるようにしてくれた。
 ソウルでは飯さえ食べれば何ごともなく、あとはただあちこち見物して遊んでいればよかった。ソウルの主要道は郊外までまっすぐに延びていた。今思い出すとあれは滅多にないチャンスだった。もう二度とソウルに行く機会などないだろう。

 ある日、華僑総商会から呼びだしがあった。その会議室に着くと、ほとんど満室で、100人余りの人がいた。私たちはすぐ席に着きどういう事情が伝達されるのかを聞いた。
 華僑総商会の責任者が言った。「みなさんの帰国の願いがかないます。同胞の安全のためにその間の手はずを整えましょう。まず私たちは2人の責任者を決め、あなた方に1本の国旗をもってもらいます。道中戦いが始まるとしたら、現状では朝鮮人は中国、ソ連、イギリス、アメリカ、フランスなどの国の人々をやはり鄭重に扱います。ソ連の占領区に入ったらあなた方は国旗をしまっても大丈夫です。ソ連人は中国人を大事にしてくれるということです。ただし一言ロシア語を教えてあげましょう。マヤキダイスキ、私は中国人ですという意味です。ソ連の管理区域に入ったらソ連人との摩擦を避けるために、彼らに自分が中国人であることを話すのです。彼らはきっとあなた方の帰国を援助してくれるでしょう。明日の朝出発です。1日100里〔*50㌔〕も歩けば、夜にはどうにかソ連管理区に着けるはずです。すべての費用、道中の食料など準備は万端です。同胞たちに何も質問がなければこれで解散します」。

 翌日の早朝4時過ぎ集合して出発した。昼食のとき休んだ他は、休憩もなかった。夜にソ連管理区域の駅に着いた。この日の行程は順調だったといえる。
 この駅のソ連軍と連絡をとると彼らは言った。「今はまだ汽車が来ないからここでしばらくお休みください。みなさんご安心ください。きっと鴨緑江を越せるようお送りします」。みんな駅で休んだ。
 ちょうど朦朧としかけたとき、私は誰かが「早く起きろ、汽車が来たぞ」と叫ぶ声を聞いた。何時なのかわからないが、みんないっせいに汽車に乗り込んだ。それは貨物列車であった。私たち100人余りは3つの車両に分乗した。無蓋貨車だったから風がヒューヒュー鳴り響いていた。夜汽車の運行は誰も管理していない。翌日の午前中汽車は鴨緑江を越えようとしていた。
 河を越えればそこはいよいよ中国の安東である。間もなく汽車は河を越えついに安東に到着した。汽車を降りるとみんなは散り散りになった。祖国に戻り着いたそのときの気持ちは容易に察しがつくだろう。
 ありがとう道中の同胞、各国の友人たち。

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◆ 原    文 ◆
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3.我们是如何回国的?

  我们从广岛起程,三个中国人和一个朝鲜人就一同朝广岛火车站走去。又目睹了广岛被原子弹子炸的残状。走了不久的时间就到了广岛火车站。该站在市郊外的山边了,火车站的房子都还在,说明原子弹炸得威力还未达到这里,在候车室没等多久就有火车进站了。我们简单商量了一下来时是从下关上岸的,这次回国仍从下关下岸回国。广岛车站乱轰轰的,没有什么秩序,好像也没有什么管理,也没有看到任何人买车票。由此说明,日本军国主义投降后,全国已成无政府状态。我们四个就上车了,找了一个坐位坐下,车上的人还是不少的,几乎满员,火车随即开动了,再见吧,毁灭的广岛。

  我们三个在火车上就商议了一下,到下关后如何办?我想日本当地机关在无政府状态下肯定办不了什么事,如果有盟军在下关登陆,找他们可能还好些。在火车上居然还遇一些友好日本人,有的还会说中国话:你们什么时候到日本的?我们说:是一九四四年被贵国军队抓来做苦工的。他惊讶地说:那你们吃苦了,日本对不起你们。我们说:日本军国主义者给别国造成灾难,把日本国也推到了灾难之中,你看广岛多惨呐!他们也都默然点头,看他们无可而奈何的样子,不知往下说什么好。火车运行了一段时间,在一个火车站与我们一同坐牢的朝鲜人,什么名字不记得了,这个难友要下车了。他说:中国朋友,我到这里还有事要下车了,祝你们回国一路顺利,再见。那就再见吧朝鲜朋友,就此挥手告别了。

  火车又运行了一段时间终于到达下关了。下车之后我们到大街上去了,其实很顺利,在街上走就遇到了美国的巡逻兵。我们说明意思,他们当然不懂我们的话,但他们看出我们是中国人,其中一人把我们送到他们的司令部。我们见到美军官员说明了情况:是被日本帝国主义抓到日本作劳工的,现在日本投降了想迅速回国,如果有船去中国可顺便带我们回去。美国军官与翻译讲了一下后翻译说;现在没有船到中国去,你们不如先到朝鲜,再想办法回国就容易了,因为现在有很多朝鲜难民在回国,天天有船往来,你们看如何?我们三个一商量说:可以,只要到了朝鲜用两条腿就能走到中国的。所以立即表示同意。美国军官就派那个翻译送我们到了下关码头,这个翻译估计是个朝鲜人,讲英语、讲中国语、讲朝鲜语,当然也会讲日语。他与码头上的朝鲜难民负责人讲了一阵朝鲜话后,就对我们说:三个中国朋友,今天晚上就由这位朝鲜朋友安排你们与朝鲜难民一起乘船到朝鲜。祝你们一路顺利,再见。我们说:谢谢先生,再见。那餐晚饭也是朝鲜朋友安排的,饭后就上船了。这是一只机帆船,有风张帆,无风开动机器,太阳一落船就起航了。再见吧,使人受过残酷折磨的日本。

  这只船的航行也很顺利。从日本的下关至朝鲜的釜山这个海峡叫对马海峡,即中途有个对马岛而得名,该岛属于日本。船到对马岛大约航程一半,也是午夜十二点左右,还在该岛休息了一个来小时。就又起航了,可说一帆风顺,该船未开动什么机器,太阳一出就顺利的,到达了朝鲜最南端的釜山市了。

  该船在釜山靠岸后,所有朝鲜人男女老少都各奔东西了,我们三个怎么办?三人一合计:一是找盟军机关,二是我们中国有无领事馆。上街找一找看吧,找到哪一个都要求他们帮忙回国。我们在釜山街上没有碰到美国的士兵,就随便问一个朝鲜人:釜山市有没有中国领事馆?这个人很热情地告知;有,离这里不远,往前边走靠右边有一个小巷子进去就是的。我们说谢谢之后就按他指的走去了,不错到后一看,门上还挂有牌子:中国领事馆。

  我们进去之后就与领事馆讲:是从日本回国途经朝鲜的,吃饭乘车,请帮助。他说;那好吧,我现在派人把你们送去餐馆吃饭,之后就送你们到火车站乘车。他带我们三人在华侨餐馆吃罢饭就到火车站。正好有往北开的车,他说:你们就上车吧,到汉城下车再想办法回国吧,再见朋友。我们说;谢谢领事馆的招待,再见。

  当时朝鲜的情况是:南半部为美军占领,北半部为苏军占领。该列车到汉城就停了。我们下车后三人商议:汉城有无中国大使馆?随即上街就边找边问了,汉城大街上看到的情况也很热闹,各商店、铺面门上都悬挂看中、苏、英、美、法的国旗和五国的领袖像。也知道了南朝鲜(现在的韩国)领导人李成晚的肖像。在街上碰到两个热情的朝鲜人,他两人知道我们的情况后说:你们是中国难民,接待中国难民的是:中国华侨汉城总商会,我们两把你们送去如何?我们同意后就随他两到了华侨总商会,总商会热情接待我们,并对两个朝鲜人谢意后他们也离去了。

  华侨总商会告诉我们说:你们要回国,现在还走不成,因为出汉城不远,就是“三八”线,也就是苏·美军分界线,其两侧有一百来里的缓冲区,无人管理,人少了走不安全,你们暂时住下吧,等人多了再一起回国!我们说:听总商会安排。给我们三个安排了一个住处,给了米一个锅子,叫我们自己煮着吃,因为在汉城吃罢饭无事只有到处玩了,也可以这样说,汉城的主要街道甚至远郊也都走遍了。现在想起来那也是个难得机会,不会再有去韩国汉城的机会了。

  一天,华侨总商会把我们都叫去了,一到华侨总商会的会议室,差不多人都坐满了。有一百来人,我们立即找地方坐下听有什么事情传达。华侨总商会负责人说:同胞们你们回国的愿望可以实现了,为了同胞安全起见还是布置一下吧,首先我们指定两个负责人给你们制定了一面国旗,在路上就打起来,在目前情况下朝鲜人对中·苏·英·美·法等国都还是很尊重的,到了苏联占领区你们把旗收起来就是了,据了解苏联人对中国人也很尊重,不过还是教给你们一句俄语:莫牙几待司几,意即我是中国人。你们苏管区难免与苏联人打交道,对他们说我是中国人,他们一定帮助你们回国的。明天一早就动身,百来里路够走一天的,天黑才能到苏管区,一切费用、路上吃的都准备好了,同胞们如没有事就散会了。第二天早晨四点多钟就集合出发了,除中午吃饭休息一下外,没有休息。晚上就到了一个苏管区的火车站,这一天的路程也还算顺利。

  在与该车站的苏军联系后他们说:现在还没有车你们就在此休息一下吧,大家请放心,一定会送你们过鸭绿江的,大家在车站休息,我正在朦胧中听到有人喊:快起来,有车了。也不知什么时候,大家一齐去上车,原来是列货箱。我们百十来人上了三个车箱,是敞车,风吹嗽嗽响。晚上行车也无人管,第二天上午车就要快过鸭绿江了,过江就是中国的安东了。不久火车就过了江到达中国的安东了。下车后大家就各走各的了,当时回到祖国的心情是可想而知的,谢谢路途上的同胞和各国朋友了。

2009/09/02

五.解放戦争時の経験

 私は帰国後すぐ元の職場・冀南銀行第四支店に行ってみた。当時、第四支店は南宮県城にあった。到着すると何人かの親しい指導者と親しい同志にあった。例えば宇志、董志明、田向栄などである。とくに、いっしょに日本に連行され労働させられた趙青竹、韓介、王博周に会い、張浩天の消息を知った。高須之だけは音信が途絶え、おそらく済南の新華院で死んだのだろうと思われた。全銀行の同志たちが私のために歓迎会を開いてくれた。私はすでに鶏沢県の指導者にこの県での仕事を引き受けると応諾していたので、翌日すぐに第四支店の同志たちに別れを告げて鶏沢に戻った。これで私の望みはかなえられた。

 中国共産党鶏沢県委員会は、私の政府財政科への配属を決めていた。私は辞令文書を受取りに政府に行き崔渓課長に会った。彼は私と王更新同志を呼び仕事の引継ぎをさせた。この日から私は鶏沢県政府での仕事を正式に開始したことになる。私と王更新同志の引継ぎは簡単なものだった。彼は何の事情も説明せず、私にただ1枚の表をわたした。それは取引先の勘定明細表であった。私に元の帳簿さえ見せずに、一部の頁をくれただけで引継ぎは終わった。私は銀行の収支決算式記帳法に基づいて、別の帳簿を作ればいいのだ。更新同志は言った。「あなたは会計業務を熟知していて、すごい」。私が「これは銀行の収支式記帳法です」と言うと、彼は「政府も同じやり方です」と言った。その日から私たち2人はいっしょに仕事をした。その後すぐ崔渓課長は転任になり、私が課長、更新同志が副課長になった。

 鶏沢県政府にはあと2人特筆すべき人たちがいた。1人は教育の仕事をしている張笑古で、彼は私の完全小学校時代の恩師であり校長である。もう1人は政府事務室の莫魁で、彼は41年私が鶏沢に戻ったとき何日かともに遊撃戦を戦った親しい同志だ。

 当時の財政の仕事も複雑ではなかった。農業では累進税率制を、工・商業は完全評価制を採用し、党、政府、軍、団などは供給制の予・決算制度を実施していた。私は鶏沢で47年の年末まで仕事をしたが、この間抗日戦争に勝利してほどなく国民党が内戦を引き起こした。それがいわゆる解放戦争である。遼瀋会戦、平津会戦が進行し、淮海会戦が始まろうとしていた。これらはすべて勝敗を決する激しい戦役であった。仕事上の必要から私は鶏沢県を離れ、冀南第3専署に転任した。

 1947年暮れ、私は冀南第3専署財政課に転任になり、古くからの知人・張奇真課長に出会った。彼は私を見るなり「あっ」と声を上げた。「文彬同志、僕を忘れたかい。もし記憶が確かなら、君の名前は張文彬、またの名を張振元というだろう」。私は「これは老課長(本店の出納課長)、記憶は確かですよ。もう八、九年前になりますね」と言った。彼は「君はなぜ改名したんだ。ここ数年どうしていたんだ」と言うので、2人の課長や同志たちにこれまでのいきさつを簡単に話して聞かせた。本店を離れて第四支店に行ったこと、垂陽、清江、企之の各県の銀行で働いたこと、42年に再び第四支店に戻ってきたこと、44年4月15日遊撃戦に失敗し、日本帝国主義軍隊によって日本に連行され強制労働させられたこと、その後日本の広島刑務所に投獄され、原子爆弾が炸裂し自分もその中にいたこと、幸運にも殉難を免れたこと、日本が降伏してから帰国したこと、鶏沢県で仕事をして、今日再び専署財政課に来たこと、文彬というのは学生時代の名で、本名を使えないとこの名前を使っていること…。
 2人の課長は言った。「文彬同志、君はほんとうに危険な目にあった。原爆の下から生還したんだから、これはすごいことだよ」。私は財政課出張所で1年足らず働いた。上司は大した仕事を与えもしなかったから、しょっちゅう各県に行って業務状況を検査し、一方で戦争のための食糧調達・運搬に駆けずり回った。

 1948年の解放戦争は形勢がはっきりしていた。遼瀋会戦は国民党の敗北によって終わりを告げ、東北野戦軍は関内〔*山海関以内〕に向かって進軍していた。平津会戦は周囲を包囲するだけで攻撃に出ていなかったが、淮海会戦はまさに緊迫しながら進行中で、国民党の敗北は決定的だった。48年秋の食糧税徴収後のある日、張奇真課長は私を訪ねて来て、私を臨漳県に転任させると話した。私はもちろん同意するしかなく、紹介状をもって臨漳県に行った。

 1948年10月私は臨漳県に着いた。紹介状をわたした相手は、知りあいの鄭孟時(元の鶏沢県秘書)で、臨漳県知事をしていた。財政課長も顔見知りの呉風岐で、しかも私が彼のあとを引き継ぐことになった。財政課にはたった3人しかいず、課長のほかは会計と監査が1人ずつで、金庫管理員さえいなかった。金庫は各区で管理していた。私たち2人には何ら引き継ぐこともなく、あとは各区を歩き回った。呉風岐は「張さん、臨漳は今や前線で、いつ何ごとが起こるか知れないから、警戒が必要です」と言う。私は「用心しよう」と言った。このとき戦報が「陳謝兵団が山西南部から黄河をわたり、洛陽等の一部の都市を征服し、漳河南部の国民党がその噂に逃げ出した」と伝えた。1949年元旦を過ぎたばかりのころ、臨漳県は幹部を動員して南下することになった。私は臨漳で幹部として地位が不安定だったから、遠征に参加しなければならなかった。臨漳では4ヵ月余り仕事したことになる。

 臨漳県では南征に10数人が引き抜かれた。県は人と馬車を出して私たちを邯鄲の蘇槽村の集結地に送り届けた。そこに着いてみて、自分たちが南下冀南分隊3大隊6中隊なのだとわかった。それは県ごとの組織であり、臨漳、成磁、邯鄲の3つの県から引き抜かれた幹部で構成されていた。その村で2日宿泊して行軍が始まった。邯館道路の曲がりくねった道を行き、平大道路〔*平郷―大名間〕にあがり一路南へと進んだ。昼夜兼行の旅程で、開封の北側から黄河をわたった。しかし開封には滞在せず、農村に向かってしばらく歩きそこに泊まった。

 農村にいるとき、自分たちの目的地がもともとは蘇州・杭州一帯であったが、今は湖南に変更になったことを聞かされた。つまり人々の言う天国(蘇・杭)から魚米の郷(湖南)に変わったのだ。農村での滞在が長引いた。明らかに前方ではまだ戦いが行われていた。2ヵ月余り滞在して再び出発した。今度は開封から汽車に乗り、鄭州に着くと南に進路をとった。汽車はずっと走りつづけ武漢から程近い、ある駅で停車した。

 長江〔*揚子江〕は南の岸が見えないほどに水をたたえ茫洋としていた。2艘の船を雇って河をわたり武昌に着いた。駅で1泊して汽車に乗り、武昌南部の紙坊鎮まで行って滞在することになった。南方の気候はかなり暑く、また雨も多い。だから北方では「春の雨は油の如く貴重だ」、南方では「春の雨は人を憂鬱にさせる」という。だが私たちはそれなりに準備をし、開封で1人1本ずつ雨傘が配られていた。またもうひとつもっともよく論議されたのが、「長途の行軍は辛く、新しい地区の建設は並大抵ではない。革命の前途は明るいが、その道は平坦ではない。平坦でない側面を充分認識することこそが大事であり、これが革命の仕事をする上で軽視できない心構えである」ということだった。私はこの議論に心から同意した。この小さな村に長くいたわけは、前方は戦闘中で、湖南がまだ解放されていないからだという。私たちはこの紙坊鎮で2ヵ月余り過ごしてある日再び出発した。

 汽車でまた武昌に戻り、定期船に乗った。乗ったのは私たちの中隊だけで、大隊やその他の中隊がどうしたのかははっきりしない。中隊の指導者が言った。「私たちはここから船に乗ってまっすぐ湖南省長沙まで航行する。現在湖南はすでに平和裡に解放されている。私たちは湖南に進駐する。同志たちは指揮に従い航行の安全を保証してもらいたい。武昌から湖南省長沙までは800里〔*400㌔〕余りの水路である。長江、湘江での長い航行ののちやっと長沙に着く。同志たちは安全に注意して、同時にこの滅多にない機会に長江と湘江沿岸の山水や風景を堪能してくれ。これは北方では見られないものだ」。船は石炭ではなく油粕を燃やして航行していたから、速度は速くはなかった。しかも、長江や湘江がいずれも逆流しているにも関わらず、船はできるだけ岸のそばを航行した。この800里余りの水路も昼夜兼行で、一路平穏に長沙に到着したのは夜だった。

 長沙市では湘江両岸に明々とかがり火が点り、とくに東岸が明るかった。岸に上がると私たちは長沙市北門外藩家坪の別荘に逗留することになった。私たちが行こうとしている目的地はまだ解放されていなかった。用事がないので街に出て遊んだ。ある日1人の親しい同志に出くわした。40年私が垂陽銀行にいたときいっしょに仕事した出納員の趙何光だった。「あ、趙くん」。彼は私を「張さん」と叫んだだけだった。趙君は、「張さん、私は前の名前ではなくなった。今は趙何光という名で、省の銀行で出納の仕事をしている」と言った。私は「趙くん、私も本名を使わず張文彬といっている。覚えておくと今後の連絡がしやすいだろう」と言い別れた。しかしその後、私は銀行の系列を離れもう連絡をとることもなかった。私たちは長沙で農歴の仲秋節〔*陰暦8月15日〕が過ぎるころまで滞在し、それから再び出発した。まず汽車に乗り湘郷に行き、今度は徒歩で資江河付近の易家湾に着き、そこから船で湖南の新化県の県城に行った。こここそが私たちの南下した目的地であった。
 解放戦争はこのころようやく基本的に終息し、1949年10月1日、新中国が誕生した。

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◆ 原    文 ◆
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五.在解放战争时期的经历情况

  我回国后立即到原单位:冀南银行第四分行去了一次。当时第四分行住在南宫县城。到后见与一些老领导和老同志如于志、董志明、田向荣等,特别是见到了我们一起被抓到日本作苦工的,赵青竹、韩介,王博周,也得知了张浩天的情况,只有高须之仍没有下落,预计可能死在济南新华院了。全行同志为我接风洗尘。因我已答应鸡泽县领导在该县工作了,所以第二天就辞别四分行的同志们回鸡泽了,这也了结了我的一个心愿吧。

  中共鸡泽县委已决定我到县政府财政科工作,我接信到政府后见到了崔溪科长。他就叫我和王更新同志来一个交接。从今天起我就算在鸡泽县政府正式工作了。我和王更新同志两人的工作交接那才叫简单呢:他什么情况都没有讲,只交给我一张表,也即有关账户的金额表,给我一些账页,连原来的账都没有看,就算交接完了。我是根据银行收付式记账法另起一套账就是了。更新同志说:你的会计业务很熟悉,不错。我说:这是银行收付式记账法。他说:政府也一样。从那天起我两就一同共事了。以后不久崔溪科长调走了,我任科长,更新同志任副科长。鸡泽县政府还有二个人值得一提,一个是搞教育工作的张笑古,他是我在完全小学校读书时的老师和校长,另一个是政府办公室莫魁,四一年我回鸡泽时与他一起打了几天游击的老同志。

  当时的财政工作也不复杂,农业实行累进税制,工商税评完税制,党、政、军、团等实行供给制的预决算制度。我在鸡泽工作到四七年底,此期间抗日战争胜利不久,国民党就挑起了内战,也就是我们说的解放战争。辽沈战役、平津战役、淮海战即将进行这些都是带决战性的战役,因工作需要我离开了鸡泽调冀南第三专署去了。

  一九四七年底,我调到冀南第三专署财政科,又遇到了一个老熟人张奇真科长,他一见我阿一声,文彬同志你我认识,如果我没有记错的话,你不叫张文彬,而叫张振元。我说:你这位老科长(总行的出纳科长)记忆不错,这已是八、九年前的事了。他说:你为什么改成这个名字?这些年你的情况如何?那就简单给二位科长及同志们说一下吧:我离总行到四分行,并在所属垂阳、清江、企之各县银行工作过,四二年又回到四分行,四四年四月十五日游击没打好,被日本帝国主义抓到日本做苦工去了,后又被关在日本广岛监狱,原子弹炸广岛我在其中,只是幸免于难罢了。日本投降后就回国了。在鸡泽县工作,这不今天又到专财科来了。文彬是读书时的名字,不用原来名就用此名了。两位科长说:文彬同志你真险呀,原子弹下都生还了,真是有幸!我在专署财政科长工作了近一年,领导也没分配什么工作,经常到各县去检查工作,另一就是为战争筹粮运草了。

  一九四八年的解放战争形势很清楚了:辽沈战役以国民党失败而告终,东北野战军已朝关内进军:平津战役只是围而不打罢了,淮海战役正在紧张进行中,国民党败局已定。四八年秋征后的一天,张奇真科长找我谈话,把我调到临漳去,我当然只能同意,拿了介绍信就往临漳县去了。

  一九四八年十月我到了临漳县,一交信原来是熟人:郑孟时(原是鸡泽县秘书)到临漳任县长了。财政科长也是认识的吴风歧,而我是接他的班的,财政科只有三个人,除科长外一个会计,一个审计,没有仓库管理人员。仓库由各区来管理。我们两个也没有什么具体移交的,剩下就是到各区走一圈了。吴风歧讲:老张呀!临漳现在还是前线,随时可能发生情况,要提高警惕。我说:会注意的。这个时候传来战报说:陈谢兵团由山西南部过黄河克洛阳等一些城市漳河南面的国民党部闻风而逃了。一九四九年元旦刚过临漳县就动员干部南下了。我这个干部在临漳可说立足来稳,就要跨上了征程了,在临漳工作了四来月就算结束了。

  南征中临漳县抽调的十几个人,县里派人与马车把我们送到了邯郸苏槽村集中地,到后才知道:我们是南下冀南支队三大队六中队,也即是一个县的架子,也即由临漳、成磁、邯郸三个县抽调干部组成的。在该村住了二天就开始行军了,走邯馆公路有转弯就走上了平大公路一直南进了,可说是昼夜兼程,在开封北面过了黄河,但没有在开封停留就往农村走了一段停下,住到农村了。

  在农村时才知道:我们的目的地原来是苏·杭一带,现在改变了要去湖南,也即由人说的天堂(苏杭)到鱼米之乡(湖南)住得很久,显然前边还在打仗。大约住了二个来月又出发了,这次是从开封坐火车到郑州往南开了,火车一直开到离武汉不远的一个站停下了。

  长江在涨水,往南看不到边一片汪洋,就雇了两艘船渡江到了武昌,在车站住一宿就乘车到了武昌南边的纸坊镇就上住下了。南方的天气就相当热了,而雨水也多,所以大家说:北方是:春雨贵似油,南方是:春雨使人愁。不过我们还算有准备,在开封每人发了一把雨伞,另一个议论最多的是:长途行军是辛苦的,建设新区也不会是平静的,革命前途是光明的但道路是曲折的,对曲折的一面要有足够的认识才行,这是革命工作必不可少的思想准备。我很同意大家这一议论的。为什么在这个小镇上住那么多久,据说前边还在打仗,湖南尚未解放。我们在那纸坊镇住了二个来月,一天又起程了。

  坐火车又返回武昌,蹬上了一只航船,只是我们这一个中队,大队其他中队如何走的就不清楚了。中队领导说:我们从这里乘船一直航行到湖南长沙。现在湖南已和平解放,我们要进驻湖南了,希望同志们要听从指挥,保证航行的安全,武昌至湖南长沙有八百多里路的水路,要在长江,湘江航行很多天才能到达长沙的,同志注意安全,同时也是一个难得的机会领略一下长江和湘江沿岸的山水和风景,这是在北方难得见到的。该船没有煤烧而是烧的枯饼,速度并不快,而且不管在长江还是湘江都是逆水航行,船尽可能靠岸航行。这八百多里水路也可说日夜兼程,一路顺利的到达了长沙,是夜晚到达的。

  长沙市湘江两岸灯火通明,尤其是东岸更亮。上岸后我们住在长沙市北门外潘家坪一栋小别墅内,就在这里又住起来了。我们要去的目的地还未解放,无事就到街上玩一玩。一天碰到一个老同志即四零年我在垂阳银行一起工作的出纳员赵何光。阿!小赵。他只能喊我老张了。小赵说:老张我不叫原来的名字了,现在叫赵何光,在省银行搞出纳工作。我说;小赵,我也不叫原名了而叫张文彬,请记住以后好联系,随即就分别了。以后我离开银行系统就再也无联系了。我们在长沙一直住到过了农历中秋节,才又出发了。先乘汽车到了湘乡又步行到了资江河边的易家湾,再乘船到了湖南的新化县城件这就是我们南下的目的地。解放战争至此已基本结束了,一九四九年的十月一日,新中国诞生了。

2009/09/01

六.新中国建設・一革命時期の状況

 私たちの中隊が湖南省新化県に着くと、当然まず政治機構の設置に着手した。県、区、郷、村にいずれも新しい政権を樹立せねばならなかった。県における私の直接働く機関は、工商、貿易、その合作で、これは南下の道すがらすでに確定していたことだ。次は、反匪反覇〔*匪賊を討伐し暴力を戒める〕を進め社会の治安を整えること、その次が土地改革36)で、農民に土地を与え生産を発展させることだった。私の所轄の仕事については、日常業務のほかにいくつか特筆に値することがあった。

 第1に、抗日戦争、解放戦争が10数年つづき、物資は枯渇し物価は高騰していた。民衆の生活の苦しさは推して知るべしであった。そのうえ、一部の商人は騒動を引き起こし、物を買い漁り、買いだめ・売り惜しみをして、物価の不安定をさらに助長した。当時、政府が掌握していた物資は少なく、物資だけに依拠して物価のつりあいを取ることは不可能だった。私は行政手段を用いて新化県の商工界の顔役たちを招集し、彼らに買いだめ・売り惜しみをせず、物価のバランスを取らねばならぬという道理と当面の情勢を説明した。やってみると、物価安定までには至らなかったが、状況はいささか好転した。

 第2に、新化県に着いたばかりですべての仕事に目鼻がついていない時期、私は命令により農村に行き農民の生活を調査した。地方の状況に詳しいこの土地の同志を探していっしょに出かけた。農村の政権はまだ樹立されていない。土匪の活動も猖獗をきわめていた。人民大衆は新政府と幹部に対して認識不足で、新政権はまだ堅固な大衆的支持基盤をもてないでいた。仕事は困難だった。社会もまだ安定していない。私たち2人は、調査にあたって万端の準備を整え、予想外の事態に遭わないように備えていた。私たちは見たり訊いたりしながら、歩いて行った。秋の収穫が終わったばかりでも、多くの人々が飯が食えず、しかし餓死する者はまだ出ていないといった状況だった。苦しいといえば充分苦しかっただろう。数十年前のことだが、私にはみな記憶になまなましい。   

 第3に、50年、修碭鉱山から邵新道路〔*邵陽-新化間〕の一帯を改修することに決まって、2人が派遣されてきた。そのうちの1人は日本の友人(彼の名前はすでに忘れた)だった。測量をし、路線を決め、標識をつけ終えてのち、2人は邵陽専署に戻って行った。私は、省城・長沙に行き新化県の県城に戻らなければならない。忘れがたいのは、その日本の友人だった。見たところ30数歳、私と年齢は同じぐらいで、2ヵ月余いっしょに仕事したが、話はしなかった。その同行した同志に訊ねると、彼は言った。「彼は、日本の敗戦後中国に残って仕事をしている人だ」。あるとき、私は彼と話そうとして言った。「ワレハニホンヒロシマイグ」。「私は、日本広島に行った」と言う意味だ。彼は笑っただけで、答えはしなかったが、おもしろいものだった。ほかにも原因があったのかもしれないが、知り合いにはなれずじまいだった。このようにして、私は湖南省新化県で2年働き、転属になった。

 転出しようとすると、私の引き継ぎにやって来たのは邵陽専署が派遣した郭申同志だった。このとき県政府、工商、貿易、合作課、合作社が、みんなで歓送会を開いてくれた。これでは行かないわけにもいかない。51年10月、新化を離れ邵陽専署に赴いた。私は専署で商工課の仕事を受けもった。正常の商工行政業務のほかに、8つの地区の貿易会社を直接指導した。私が専署商工課で各方面の状況、とくに8つの会社の状況をまだはっきり掌握しないうちに、「3・5」運動〔*三反五反運動…3つの害毒、5つの害毒に反対する国民運動〕がやって来た。あらゆる党政府機関、商工各界はみなこの運動に参加した。この運動が終わると、私はまた専署商工課から専区保険会社へと転属になった。具体的には事務室の仕事だ。二、三ヵ月して、つまり前年の10月から翌年の10月まで邵陽地区で1年かっきり仕事をし、妻、息子、保母をともなって邵陽を離れ省都・長沙に赴任した。

 1952年10月、私は邵陽専区から中国人民保険会社湖南支社に転任した。秘書課の仕事だった。私はここに3年勤務した。日常業務以外のことをいささか記しておこう。まず出張が多かった。常に省支社傘下各会社の状況を把握し検査をした。3年の間に私は湖南のほとんど全県をめぐり歩いた。傘下各社の保険事情を把握するだけでなく、湖南の山水を見歩いた。次に、53年春、北京本社に行き3ヵ月間保険業務を学んだ。やることなすこと学習だったといえるし、実際学習せねばならないのだった。54年7、8、9月、中国共産党湖南省委員会党学校で中央が頒布した「過渡期の総路線」を学習した。

 さらに、1953年、国家は貨幣制度改革を実行し、1元は旧貨幣の1万元という新しい貨幣を発行した。旧貨幣はすぐに使用を停止した。これが給与制度改革を進行させ、元来の供給制から俸給制に変わった。供給制とは戦争中実行せざるを得なかった現物支給の賃金制度だった。平和建設期には当然収束せねばならなかった。
 第4に、国家は、糧食、綿、油の統制購入・統制販売を実施した。
 第5に、都市住民の戸籍制度を実行した。私たち各地を転戦して居住の定まらない者も、今や戸籍のある公民となった。湖南保険会社は湖南省財政庁の傘下企業で、業務は本社に、人事制度は財政庁に帰属した。湖南交通銀行がまた設立されるという。新しい職場は職員を引き抜くことになり、私は再び引き抜かれる一員となった。保険会社を離れ交通銀行に行くことになる。

 中国交通銀行は解放前からあった。なおかつ国外機構もあったが、国内には北京の中国交通銀行総管理所があるだけだった。今設立しようとしている中国交通銀行各地支店は、銀行業務をするのではなく、国家を代表して公私の合弁企業を管理するのである。それは垂直線型指導であり平面型指導でもあって、財政庁の附属機構であった。
 私は財政庁の命を受けて交通銀行湖南支店設立を計画した。1955年10月、正式に中国人民保険会社湖南支店を離れ、交通銀行湖南支店に行った。のちに幹部たちが配属され副社長も配属されて来た。というのも社長は人民建設銀行の行長が兼務した。私はなおも秘書課を任されて仕事したが、機構の設立計画期間中に各地へ行った。まず、中国交通銀行総管理所で会議が開かれ、機構設立計画の段取りと業務作業推進について話し合われることになり、私は北京に行った。ちょうど都合よく、交通銀行総管理所の総支配人は、もともと冀南銀行本店総務課の王一農課長で、のちに第四支店の主任もしたことがあった。昔馴染みの指導者、同志が相会って格別の親しみをこめて昔話をした。彼の言うことには、「今、人民銀行社長は往時冀南銀行本店の胡景雲社長だ」。思いがけず、この昔馴染みの指導者、同志にも会った。その次に、私は湘西行政公署、黔陽専署、郴州専署の交通銀行設立計画専区3ヵ所で1年近く働いた。交通銀行機構の設立はなお未完成で、その他の仕事もまだ正式に進行していなかったが、上部機構は交通銀行の撤収を発表した。ただちに仕事は終結し、他の幹部が別に仕事の手はずをつけてから、私は妻と副社長とともに財政庁に戻った。

 私は、財政庁に戻って幹部課で人事の仕事をした。省レベルの機関にはやはり下部機構への検査業務があり、出張が多かった。私は省財政庁幹部課で1年近く働き、おおよそ次の3つの仕事をした。(1)省委員会幹部調整作業班に参加し、邵陽地区委員会に出向いてたくさんの幹部「档案」〔*身上調書〕に目を通し幹部の状況を把握して、異動しなければならない幹部を決めた。このようにして邵陽地区で長期間働いた。(2)華東財経学院が湖南へ学生募集に来た。私は、勉学には好機と決心し、時間をとってまじめにひととおおり準備して、語文と数学の試験を受けた。その結果、2人だけ合格し、私はその1人だった。しかし、私は運が悪く、58年大躍進〔*工農業躍進運動〕となり、華東財経学院は授業を中止し、私たち合格した学生も勉学の機会を失った。(3)私は省財政庁の仕事についた。省委員会の決定により指導工作班を派遣することになり、陵零地区道県に行き農村大弁論に参加したが、これが大躍進の始まりだった。数ヵ月弁論し、数ヵ月大法螺も吹いて、農村工作は終わり、私は財政庁に戻った。仕事はまた配置転換が予告されていた。

 1958年7月のある日、私は事務室で幹部を配属させるために来たと言う人を応接していた。紹介状を見ると水電庁だった。それは私を転属させようというのだった。何と課長をそこへ引抜こうというのだ。その人が去ると当然私たちに話があり、紹介状が書かれた。私たちは水電庁に出頭した。実際は庁内というわけではなく、陵零地区の冷水滩にセメント工場を新設しようというのだった。セメント建材業は湖南が第一だ。 先陣の10数人が冷水滩に到着し、工場所在地を選び、工場の建物を建て、宿舎建設に着工した。幹部の配属と労働者の募集が同時に進められた。幹部は学習し、労働者は養成しなければならないが、湖南には当時まだセメント生産業がなかった。私は山東(済南セメント工場)、山西(大同セメント工場)に派遣され労働者の養成について打合わせをした。機械設備の発注も緊迫して進行していた。私の具体的な仕事は事務室の業務だったが、事実上事務室にはほとんど座っていられなかった。私という事務室主任はいつも外を駆けずり回っていた。工場の初期設計は3万2千トンの設備2組だった。努力の末第1組はすでに建設され操業を開始し、工場もそれらしくなった。だから私は、家も長沙の省財政庁から省冷水滩セメント工場に引っ越した。

 しかし、大自然は人民に災難をもたらした。58年は豊作、59年は凶作、60年も凶作で、全国的な凶作といえた。国中がみな苦しい日々を過ごした。水電庁冷水滩セメント工場ももちろん例外ではない。このため第2組・年産3万2千トンの計画は建設が中止された。こうして工場は人員削減しなければならなくなった。私も削減される1人で、省水電庁は私を呼び戻すことに決めた。このときすでに1961年7月であった。私が省水電庁冷水滩セメント工場で新設業務から転属になるまで、まるまる3年経っていた。私がセメント工場から呼び戻されてのち、省水電庁は私たちを庁所属の湘中電気供給所に配属した。そこで私は財務課の業務を任せられた。まことに余計なことに、この課には別に課長がいた。のちにまた党委員会で一連の組織業務をした。最後は、各課・各室支部で党の業務に従事した。61年暮れ、またそこを異動して湖南省財政庁に戻った。

 1961年暮れ、私が紹介状を持って財政庁に出頭すると、人事課はすでに人事所に変わり、もとの課長・劉素臣が現在の所長になっていた。文書をわたすと私は言った。「劉課長、あっ所長、あなたはなぜ私をまた呼び戻したのですか」。彼女は言った。「張さん、あなたはどうして戻りたくないのですか」。「私は外で一回り無駄足を踏んで、またもとに戻ったと言っているんです」。「一回り駆け回るのも良いものでしょ。あなた方を転属させたのは、工場の仕事をしてもらうためでした。戻って経済建設所の指導者です」。私は言った。「光明同志はまだ経済建設所にいますか」。「いません。機械庁へ転属になりました。これは見込みどおりのことです。あなた方はなおもとの職場にとどまっているのです。今、長沙の各省級企業は、工場駐在要員を配置しようとしています。配置が全部終わったら、会議を招集します。あなたは彼らの班長です。もう1人副班長を選出しなければなりません。主に企業を監督して、期日どおりに出納・徴税する財経制度を執行します。いつ人がそろい会議を開くかは、いずれあなたに通知します」。所長に別れ、また財政庁の紹介状を持って帰った。沙、王両主任に会うなり私は言った。「2人の指導者、私はまた戻りました。何をやりましょうか。報告するまでもないでしょう。あなた方は私よりよく知っている。他ならぬあなた方が私をここに配属させたというわけでしょう」。みんな笑うだけだった。こうして財政庁での勤務をつづけた。

 最初に財政庁の命により8-9ヵ所の長沙にある省級企業に工場駐在要員を転属配置する問題は、省の規定に従いもとの企業から課長級幹部を工場に駐在させ、1年してようやく配置が完了した。財政庁から公文書を発行し、工場駐在班の班長、副班長、及び各企業駐在要員は各企業に戻った。こうして工場駐在業務はどうにか正式に展開されることになった。次に、省財政庁はどうしたわけか、私たち工場駐在要員を長沙市税務局に代行管理させた。代行管理は66年文化大革命42)のときまでずっとつづいた。さらに、財政庁はこれらの工場駐在要員を鉱業院に集めて、省党学校で1年近く学習させ、省福田「5・7」幹部学校で2年労働学習させた。72年私はまた湘潭市財政局に配属された。62年から72年、私の財政庁での10年はこれで終わる。

 1972年2月、私は湖南省福田「5・7」幹部学校から直接湘潭地区財政局に配属され、寮に住んだ。仕事は企財班で、班にもう1人呉という姓の同志がいたが、誰が責任者なのか発表はなかった。私が財政局にいた数年の経過状況は次の通り。(1)財経機構はたえず変化していた。財金局、財銀分家は財税局に変わり、財税分家は財政局に変わった。地方と町が合併して現在の湘潭市財政局になった。(2)私は企財課長を務め、主に企業の財務部門の業務を管理した。あるときは、各県に検査に出かけセンター業務を行った。(3)年老いて病が多くなった。歯が痛み脱落して何本もなくなり、全部入れ歯に換えた。胃が痛み飯は食えないし、よく眠れないので、結局手術をした。結核など疾病が全身にまとわりつき仕事ができなくなった。日常生活さえも自由にまかせず、あるときは長期休暇を願い出て休養した。(4)病気を治療しながら仕事をつづけて、1979年5月正式に離職手続きをし、安らかに晩年を過ごすことになった。

 私の一生の革命事業は、1939年8月から抗日戦争、解放戦争、新中国の平和建設を経て1979年5月まで40年余の経歴により終了することになる。以後は、まさに職業を離れた革命事業である。

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六.我在建设新中国这一革命时期的情况

  我们这个中队一到湖南新化,当然是首先建政,从县、区、乡、村都要建起新的政权。我在县直机关是搞:工商、贸易、合作的,其实这些南下路上就都确定好了的。其次就进行了反匪反霸以整顿社会治安,再次是土地改革,使耕者有其田以发展生产。我所管的工作除日常的外,有以几件事值得一叙:首先抗日战争、解放战争打了十多年,物资奇缺物价飞涨,人民生活之苦是可想而知的。加上一些商人兴风作浪,抢购物资、囤积居杂,更助长了物价的不稳。当时政府掌握的物资也不多完全依靠物资来平衡物价是作不到的。我就采取了一些行政手段,招集新化工商界头面人物给他们讲清道理与当前形势,不要把购囤积而要作些平衡物价之事,这样作,虽不足以使物平稳,不过总好一点。

  其次是才到新化,一切工作尚无头序,我就奉命到农村去作了一次农民生活调查。找了一个熟悉地方情况的本地同志与其一同出发了。当时农村政权尚未建立,土匪活动也很猖狂,人民群众对新政府和干部认识不足,也就是说新政权还没有巩固的群众基础。工作困难,社会也还是很不安定的,我们两个下乡调查是作了一切准备的,以防不测免遭意外。我们一路走,就边看边问,秋收刚过很多人就没有饭吃,但还没到饿死人的地步:苦也就够苦的了。事隔几十年了,那种事对我来说,都记忆犹新。

  再次是五零年修砀矿山至邵新公路的那公路地区决定要修了,并派两个人来,其中有一位日本朋友(他的名字现在忘记了),搞测量、选路线、走标完成之后,他们两个回邵阳专署,我因要去省会长沙就回新化县城了。使我不能忘记的是那位日本朋友。当时看样子有三十来岁与我年纪差不多,在一起工作了二个来月,从来不讲话。我问与他一起来的那位同志,他说:这位日本朋友是日本战败后留下来在中国工作的。有一次我想与他谈谈,我说:我里洼尼洪溪鲁斜马一古。即我到日本广岛去过。他只笑而不答话,真有意思,是否还有其他原因就不得而知了。我就这样在湖南省新化县工作了二年就调离了。

  我要调走了,来接我的班的是邵阳专署派来的一位郭申同志。此时县政府、工商、贸易、合作科和合作社都开了欢送会。这就非走不可了。五一年十月离新化赴邵阳专署了,负责工商科的工作,除正常的工商行政事情外,还直接领导有八个地区的贸易公司。我在专署工商科各方面情况,特别是八个公司的情况都还没有摸清楚,就来了“三·五”运动,所有党政机关,工商各界都到这一运动中去了。这个运动搞完了,我也调离未署工商科而到专区保险公司去了。具体是搞办公室工作,也只搞二、三个月也就是从去年十月至今年十月在邵阳地区工作了一年整,就带着妻子、儿子、保姆一起离开邵阳赴省会长沙了。

  一九五二年十月,我从邵阳专区调到了中国人民保险公司湖南分公司,具体搞秘书科工作。我在湖南保险公司干了三年,除了日常工作外有些事值得一记:首先是出差多,省公司下属各公司经常了解情况和检查。在三年中我几乎走遍了湖南的每一个县,不但了解下边保险情况,也看了湖南的山山水水。其次是:五三年春季,到北京总公司学了三个月的保险业务,这就叫干什么就必须学什么,而且是必须的。五四年七·八·九月,在中共湖南委党校学习中央颁布的“过度时期总路线”。再次一九五三年,国家还实行币制改革发行新人民币一元兑旧币一万元,旧币随着停止使用。这进行了工资制度改革由原来的供给制改成了薪金制,供给制是战时不得不实行的一种供给制度。和平建设时期当然是供给制应该结束了。四.国家对粮、棉、油实行了统购统销。五.对城市居民实行了户口制度。我们这些南征北战居住无定的人,现在成了有户口的居民的公民了。湖南保险公司是湖南省财政厅的一个下属企业,业务归总公司,人事制度归财政厅,据说又要成立湖南交通银行了,成立新单位就要抽调人员,我又是被抽调的一员,也就是要离开保险公司到交通银行去了。

  中国交通银行解放前就有的,而且还有国外机构,国内只有一个在北京的中国交通银行总管理处了。现在要建的中国交通银行各地分行不是搞银行业务,而是代表国家管理公私合营企业的。它归条条领导也归块块领导,因此它是财政厅的二级机构。我就奉财政厅之命筹建交通银行湖南分行了。一九五五年十月份,正式离开中国人民保险公司湖南分公司,到交通银行湖南分行,以后又调来一些干部还调来一位副经理,因经理是人民建设银行,行长兼的。我仍是负责秘书科工作的,但在机构筹建中还是到各处去的。首先我到北京在中国交通银行总管理处开了一次会就是布置筹建机构和开展业务工作,也真巧交通银行总管理处的总经理,原来就是冀南银行总行总务科的科长,当然以后他又当过第四分行主任。老领导老同志相见叙旧格外亲热,据他说;现在人民银行总经理就是当年冀南银行总行胡景云总经理。出乎意料地见到了这些老领导老同志。其次我在湘西行署,黔阳专署和郴州专署筹建专区交通银行在这三个地方搞了将近一年。交通银行机构建立还未完成,其他工作可以说还未正式进行,上级就宣布交通银行撤消了,随即就结束工作了,其他干部另行安排工作之后,我和妻子及付经理回到了财政厅。

  我回到财政厅在干部科搞人事工作,在省级机关还是到下边检查工作即出差多。我在省财政厅干部科近一年大致干了如下三件事:一.参加省委调干工作组,去了邵阳地委,看了不少干部档案,了解干部情况,订了要调的干部。这样在邵阳地委搞了很长时间才结束。二.华东财经学院来湖南招生,我下决心去读书是个好机会,我就抽出时间认真准备了一下,语文和数学参加了那次的考试。考试的结果只有两人考上了其中有我一个。我的运气不好,五八年大跃进了,华东财经学院也停办了。我们这些考取的学生也就失学了。三.我参加了省财政厅,根据省委决定派了一个工作组,去陵零地区道县参加农村大辩论也即大跃进的开始,辩论几个月,也吹了几个月浮夸风,农村工作结束后,我就回到了财政厅,也预示着工作又要调动了。

  一九五八年的七月一天,我正在办公室接待了一个人,他说是来调干的。我一看介绍信是水电厅,是调我的,这怎么好讲就引到科长那里去了。那人走后当然就给我们讲了,写了一个介绍信,我们就水电厅报到了。其实并不在厅里而到陵零地区冷水滩筹建水泥厂的,水泥建材企业,这在湖南是第一家。首批十多人就到了冷水滩,选厂址、建厂房、宿舍就开工了。调干部,招工人也在同时进行,干部要学习,工人要培训,但湖南没有这个条件,也就是湖南当时还没有水泥生产企业。我就被派到山东(济南水泥厂)、山西(大同水泥厂)联系培训工人事宜。机器设备的订购都在紧张进行着。我的具体工作是搞办公室工作的,实际上很少能坐在办公室,我这个办公室主任经常在外边跑。该厂原设计是年产三万二千吨设备二套,经过努力第一套已经建好了投入了生产,工厂也像个样子了。所以我把家也从长沙,省财政厅搬到了省冷水滩水泥厂。

  但是大自然给人民造成了一场灾难。五八年是丰收,五九年是灾荒,六零年也是灾荒,可以说全国性的灾荒,全国都在过苦日子,水电厅冷水滩水泥厂,当然也不例外。为此第二套年产三万二千吨的计划就停建了。这样工厂就要减员。我也是被减之一,省水电厅就决定把我调回来,这已是一九六一年的七月份了。这样我在省水电厅冷水滩水泥厂从筹建到调离整整三年。我从水泥厂调回后,省水电厅就把我们分配在该厅所属的湘中供电所。该所叫我负责财务科工作,这个科有科长,真是多此一举,后来又在党委搞了一段组织工作,最后在科室支部搞了段党的工作。六一年底,就又调离该所回湖南省财政厅了。

  一九六一年底,我持介绍信去财政厅报到,人事科已改成人事处,原来的科长刘素臣也就是现在的处长了。一交信我就说:刘科长啊处长了,你为什么又把我调回来?她说:老张,你怎么不愿意回来吗?我的意思在外白跑了一圈,回原地了。她说:跑一圈也好么,调你们是搞驻厂工作的,归经建处领导。我说:光明同志,还在经建处吗?她说:不在了,调到机械厅去了。这是意料中的事,你们还驻在原单位,现在长沙的各省级企业都要配驻厂人员,等配齐之后召集开个会,你任他们的组长,再选一个副组长,主要是监督企业执行财经制度,按时纳税政,何时人齐,何时开会,到时会通知你的。辞别处长又拿了财政厅介绍信回来了。一见沙王两主任我就说:两位领导,我又回来了,干什么?就不要汇报了吧,你们比我还清楚,是你们叫我干这个工作的呀!大家一笑而已。就这样在财政厅干下去了。

  首先奉财政厅之命与那八、九个在长沙的省级企业调配驻厂人员问题,按省的规定由原企业配备科仍驻厂干部,搞了一年才配齐,由财政厅发了一个公文把驻厂组的组长副组长,以及驻各企业人员下到了各企业。这样才算正式开展驻厂工作了。其次省财政厅不知为何?财政厅把我们这些驻厂人员交给长沙市税务局代管了。一直代管到六六年文化大革命时才结束,再次是财政厅把这些驻厂人员集中在矿院,省党校学习近一年又到省福田“五·七”干校劳动学习了二年于七二年,我又调到了湘潭市财政局,从六二年到七二年,我在财政厅十年就结束了。

  一九七二年二月,我由湖南省福田“五·七”干校直接分配到了湘潭地区财税局,搞了一间宿舍住下。工作就在企财组,组内还有一个姓吴的同志,谁负责都没有宣布。我在财政局这些年经历的情况:一.财经机构变个不停:财金局、财银分家变成了财税局、财税分家变成了财政局,地市合并成了现在的湘潭市财政局。二.我任企财科长,所以主要还管理企业财务方面的工作,有时也下各县检查搞中心工作。三.人老了疾病也多了,牙痛脱落最后没剩几个牙了,就换一口假牙,胃痛,吃不了饭,也睡不好觉,结果动了手术,结核病等等疾病缠身工作不了,连生活都不能自理,有时就请长假休养。四.有时也边治病边坚持工作,直到一九七九年五月,办了正式离休手续,就安度晚年了。

  我这一生的革命工作,从一九三九年八月中经抗日战争,解放战争,新中国的和平建设一直到一九七九年的五月经历四十来年算是终止了。以后就是不在职的革命工作了。