tag:blogger.com,1999:blog-54827670662583373632024-03-06T02:52:18.577+09:00Dignity of the human 人的尊严>>>>>>>>>>>>>>>>>>> Niigata Prefecture Japan China Friendship AssociationNIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.comBlogger9125tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-68215516538173473032009-09-09T14:17:00.006+09:002009-09-27T14:16:19.745+09:00
はじめに
人の一生は、幼児期、少年期、青年期、壮年期、老年期、晩年期などいくつかの段階を経るものである。
しかし、生きた時代や社会、家庭の違いによって千差万別といえよう。
私は、中国の歴史上多事多難な時代に生まれた。
外からの侵略と内戦が絶え間なくつづいた。
私が就学して先生から最初に教わった歌は、「蓬莱(訳注1)に登れば、北に満州を望む」というものだった。
1931年9月18日、日本軍国主義は東北地域を不法に占拠し(訳注2)、全国人民の抗日統一戦線を要求するうねりが高まっていった。
西安事件(訳注3)が起こり、張学良、楊虎城の2人の将軍が将介石を押さえつけて内戦を停止させ、ついに抗日統一戦線が実現したのだった。これが1936年のことだ。
1937年、私はやっと小学校を卒業し、石家荘鉄路学校の入学試験に合格した。入学してから勉学するいとまもなく、7月7日盧溝橋事件(NIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-71616841864505398892009-09-08T11:58:00.006+09:002009-09-27T14:18:22.639+09:00一.幼年時代の思い出
私は初めて大人について畑に綿花を摘みに行った。
私たちの家では、子どもたちが畑に出て綿を摘むと、祖父母が労働の報酬をくれるのだった。
私がはっきりと覚えているのは、綿花を1斤〔*約500㌘〕摘むごとに1枚の銅貨がもらえたことだ。
午前中いっぱい摘んで家に帰ると、おばあさんが秤ではかってくれて言った。
「雪成〔*文彬さんの幼名〕は3斤以上摘んだね。ごほうびを入れて銅貨を4つあげようね」。私はうれしくて跳びあがった。
その時代、1枚の銅貨で落花生1両〔*約50㌘〕か飴玉が2粒買えた。お金があれば物を買って食べられると喜んだのだった。
村の東のはずれに、わが家の畑が2畝〔*約13㌃〕あった。
麦か高梁を一毛作作れるだけの畑だった。
作物がもうすぐ収穫できるころ、祖母が、「諾成(私の従兄)に雪成や、うしろの畑を見張ってきておくれ」と言った。
見張りにNIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-20706472198453055292009-09-07T14:45:00.008+09:002009-09-27T14:21:01.301+09:00二.少年時代の学校の思い出
私は、1928年7月、郷里の村の東庄小学校に入学した。
初めて教えを受けた先生は、張儒楷といった。
「三字経」と「百家姓」から習い始め、その後「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」、ついには「詩経」(訳注9)までみな習った。
そのころの勉強は、機械的な丸暗記と暗唱で、早起きして学校へ行き本を暗唱させられた。暗唱できないと罰で立たされるし、朝ご飯を食べに帰してもらえず、暗唱できてようやくご飯を食べに帰してもらえた。先生の生徒に対する指導の厳しさはたいへんなものだった。
この時期に「9・18」事件〔*満州事変〕が起き、日本軍国主義が東北地域を侵略する戦争が始まった。
そこで先生は私たちに歌を一曲教えてくれた。
「蓬莱山に登れば北に満州を望む。いつの日か命を奉じ、精鋭な軍隊を率いて一戦を交え、祖国の山河を取り戻さん…」。これは国民の叫びであった。NIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-33879210940405315962009-09-06T14:51:00.006+09:002009-09-27T14:29:33.796+09:00三.青年時代革命事業に参加した思い出
私と張振鐸君は1937年8月石家荘鉄路学校を出発した。永年搭連鎮まで汽車に乗って行き、下車してから鶏澤県に向かって歩いた。県都に着いてみると大通りはごったがえしていた。私たち2人は母校に直行した。戦争の影響で学枚も授業を停止していたが、先生だけはまだ残っていた。私たちは先生に状況を報告してからそれぞれ自分の家に帰った。
1937年の秋、日本軍の飛行機は河北省南部の各県庁所在地に狂ったような無差別爆撃をくりかえし、国民政府の軍隊と県庁の職員はみな持ち場を撤退しが、まだ日本軍国主義の地上部隊は到着していたわけではない。その頃は無政府状態になっており、各地で自衛組織がつくられていたから、いたるところに大小の司令部ができていたともいえるだろう。
そうして1938年秋になると、国民革命軍第八路軍が私たちの県に進駐してきて、県知事に抗日政府の擁立を委任NIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-17506927204213638932009-09-05T15:41:00.006+09:002009-09-27T14:32:45.761+09:00四.抗日戦争参戦時期の一時平常ならざる個人的体験
1944年4月15日、私たちの機関が滞在する村が、突然、日本帝国主義の掃蕩部隊に包囲された。冀南銀行第四支店は、敵兵に6人捕えられたのだ。私はそのうちの1人だった。
のちに臨清、済南に監禁され、飢えに苛まれながら、青島から船で日本に連行された。途中暴風雨に遭い、すんでのところで海底に葬られそうになった。
日本に着いてから新潟の港の埠頭で強制労働をさせられた。食糧は足らず、寒さをしのぐ衣服もなく、病気になっても治療ひとつしてもらえない。
その後また日本人に捕まり、広島刑務所に監禁された。
45年8月6日、原子爆弾が広島に落とされ町は廃墟と化した。私自身も運命をともにしたが、幸いにも殉難を免れた。
その年、8月15日、日本帝国主義は降伏した。私もすみやかに祖国に帰った。次にこれを詳しく述べてみよう。
1.私はどのようにして日本NIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-23454150565496233122009-09-04T14:58:00.005+09:002009-09-20T13:34:45.763+09:002.日本での一年余り
船が着岸し、上陸の命令が出た。しかし日本兵の姿はない。青島のときのように、商人風の日本人管理者たちと白衣を着た医者らしい人々が数人いるだけだ。
通訳が言った。「みなさん、道中お疲れさまでした。ここで隊・班ごとに服を脱ぎ、布団や持ち物といっしょに縛り蒸気消毒をしてもらいます。終わったら裸のまま並んで、あそこにいる医者たちに薬液を全身に塗ってもらってください」。そうして服を着、自分の持ち物を持ってくると朝食になった。一目見てみな失望した。1人1個の握り飯と冷や水だけだったからだ。
通訳が言いわたした。「みなさんまた出発しなければなりません。汽車に乗って大阪と新潟へ行きます。すぐ出発です」。汽車が大阪に着くと、第3中隊が降り、大隊長も下車した。私たち1、2中隊はそのまま乗って北に向かい、新潟県新潟市に着き、そこの華工管理所に入れられた。
こここそ私たちの苦役のNIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-25296428155119388412009-09-03T15:04:00.004+09:002009-09-20T13:37:03.528+09:003.どのようにして帰国したか
私たちは広島を出発した。中国人3人、朝鮮人1人はともに広島駅に向かって歩き、再び広島の被爆の惨状を目のあたりにした。しばらく歩くと広島駅に着いた。駅は郊外の山のそばにあり、駅の建物はまだ残っていて、原爆の威力がここまでは達していないことを物語っていた。待合室で待っているとまもなく汽車が駅に入ってきた。私たちは、「来るとき下関から上陸したから、今回帰国するのもやっぱり下関から出発しよう」と単純に話し合った。広島駅はごった返していて、無秩序で、まるで何の管理もされていないようだった。汽車の切符を買う人もなく、日本軍国主義が降伏したのち、国中が無政府状態になっていることをうかがわせた。私たち4人は汽車に乗り、席を見つけて座った。汽車には大勢の人が乗っていて、ほぼ満員だった。汽車はすぐ発車した。さらば、壊滅した広島。
私たち3人は汽車の中で、下関に着いてからNIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-23192650050414845942009-09-02T15:09:00.006+09:002009-09-27T14:36:34.273+09:00五.解放戦争時の経験
私は帰国後すぐ元の職場・冀南銀行第四支店に行ってみた。当時、第四支店は南宮県城にあった。到着すると何人かの親しい指導者と親しい同志にあった。例えば宇志、董志明、田向栄などである。とくに、いっしょに日本に連行され労働させられた趙青竹、韓介、王博周に会い、張浩天の消息を知った。高須之だけは音信が途絶え、おそらく済南の新華院で死んだのだろうと思われた。全銀行の同志たちが私のために歓迎会を開いてくれた。私はすでに鶏沢県の指導者にこの県での仕事を引き受けると応諾していたので、翌日すぐに第四支店の同志たちに別れを告げて鶏沢に戻った。これで私の望みはかなえられた。
中国共産党鶏沢県委員会は、私の政府財政科への配属を決めていた。私は辞令文書を受取りに政府に行き崔渓課長に会った。彼は私と王更新同志を呼び仕事の引継ぎをさせた。この日から私は鶏沢県政府での仕事を正式に開始したNIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5482767066258337363.post-26877792102641770502009-09-01T15:14:00.005+09:002009-09-20T13:39:43.800+09:00六.新中国建設・一革命時期の状況
私たちの中隊が湖南省新化県に着くと、当然まず政治機構の設置に着手した。県、区、郷、村にいずれも新しい政権を樹立せねばならなかった。県における私の直接働く機関は、工商、貿易、その合作で、これは南下の道すがらすでに確定していたことだ。次は、反匪反覇〔*匪賊を討伐し暴力を戒める〕を進め社会の治安を整えること、その次が土地改革36)で、農民に土地を与え生産を発展させることだった。私の所轄の仕事については、日常業務のほかにいくつか特筆に値することがあった。
第1に、抗日戦争、解放戦争が10数年つづき、物資は枯渇し物価は高騰していた。民衆の生活の苦しさは推して知るべしであった。そのうえ、一部の商人は騒動を引き起こし、物を買い漁り、買いだめ・売り惜しみをして、物価の不安定をさらに助長した。当時、政府が掌握していた物資は少なく、物資だけに依拠して物価のつりあいをNIIGATA_JCFAhttp://www.blogger.com/profile/01595192585655315174noreply@blogger.com0